元兵士と「メイド・イン・ジャパン」が導いた、日本との縁
「大手メディアが萎縮しきった日本には、もう失望していますか?」というこちらの質問に「いいえ」と答えたファクラーさんは、現在は日本再建イニシアティブというシンクタンクで「日本は今、世界に何を提供できるか」について研究している。朝日新聞元主筆の船橋洋一氏が理事をつとめる同シンクタンクは、福島第一原子力発電所の事故後に福島原発事故独立検証委員会(民間事故調、委員長北澤宏一)を立ち上げるなど、一貫して調査報道を展開してきた。まさに「記者同士の横のつながり」から生まれた機関と言えるだろう。「ニューヨーク・タイムズの支局長を6年半続けてきて、そろそろ退任となった時に別の通信社で記者を続けるよりも、日本に残って船橋洋一さんのシンクタンクを支持したいと思ったんです。今は主任研究員兼ジャーナリスト・イン・レジデンスとして、『日本がこれから世界に何を提供できるか』を考えるプロジェクトの編集者をしています。日本には失われた20年があり、東日本大震災もありましたが、やはり世界は日本に注目しています。政府が打ち出しているアニメコンテンツなどの『クールジャパン』ではなく、たとえばデザインや美術、建築や医療サービスのようなものに、世界の人が必要とするものがたくさんありますから。
日本は中国が台頭してきたことと震災を経験したことで、自信を失ってしまいました。その焦りから日本を礼賛する空気が生まれたことは、仕方がないかもしれません。しかしわざわざ自己礼賛しなくても、日本には良いところがたくさんあります。たとえば日本のホワイトカラー層は世界的に見てレベルが高いとは思いませんが、もの作りのレベルはとても高い。レストランに行けば値段以上のおいしい食事が出てきて、商品の創意工夫も素晴らしい。現場で働く人たちの底力こそが、日本の良さなのではないでしょうか」
ファクラーさんにとって日本は、アメリカのアイオワ州で育った少年時代からずっと興味深い、評価に値する国だったという。それは「メイド・イン・ジャパン」に触れたことと、太平洋戦争を経験した元兵士が周りにいたことが大きいそうだ。彼らは常日頃、ファクラー少年の前で日本を卑下するどころか、「強い相手だった」と褒めていた。戦勝国の余裕ゆえのことだったが、それも日本への興味を駆り立てる要素になったと振り返る。
「僕が子どもだった1970年代のアメリカでは、すでに日本は評価されていました。ベトナム戦争の真っただ中だったので、日本はもう敵ではなくなっていた。それどころか戦前の日本人は差別の対象だったのに、対等の相手になっていました。そして当時はトヨタやホンダなどの高品質な日本の商品が、アメリカでも普及し始めていました。日本製品を手に取って『さすがゼロ戦を作っていた国のものだけある』なんて言う人もいましたし、ソニーや松下などのカリスマ創業者が頑張っていたことも、好意的に受けとめられていました。とはいえ僕が日本に来ようと思ったのは80年代になってからで、バブルに沸く日本の経済構造が、アメリカとはまったく違うことに興味を持ったことがきっかけですが……(笑)」
日本にはまだ希望があるし、良いところはたくさんある。失望するには早いし、萎縮なんかしている場合ではない。そうファクラーさんは力を込める。だがそんな彼にすら、ネット右翼は「反日」のレッテルを貼ってきた。臆することなく安倍政権を批判したことが、ネトウヨには許せなかったのかもしれない。しかしファクラーさんの偽らない言葉は、日本を愛するがゆえの苦い良薬とも言えるのではないだろうか。
「反日と言われて萎縮してしまうのは、自己のアイデンティティーがない証拠だと思うんです。何を大事にしていて、どういう価値観を持っているかがジャーナリストとして明確であれば、決して反日なんてことはない。むしろ『日本の民主主義を守ろうとしているのに、何が反日だ』って話ですよ(笑)。僕はそう思っているから、『反日』と言われてもひるむことはありません。だって僕は愛する日本に恩返しがしたくて活動しているのだし、今や日本は、『第2の故郷』なのですから」