1945年5月から6月にかけて九州帝国大学(現九州大学)医学部で、陸軍によって連行されたアメリカ人捕虜8人が、実験手術で死亡した。のちにGHQ(連合国最高司令官総司令部)に厳しく裁かれたこの「九大生体解剖事件」は、遠藤周作の小説「海と毒薬」(1958年)のモチーフにもなった。現場に医学生として居合わせたのは、現在92歳になる医師の東野(とうの)利夫さんだ。一体どんな手術を目撃し、どんな思いを抱いていたのか。話を聞きたくて福岡まで訪ねた。
いくら話しても、戦争のことは次世代に伝わらない
最初に、事件が起きた当時、どう過ごしていたのかを聞こうと思っていた。これまで多くのメディアに出演していらしたのだから、饒舌(じょうぜつ)に話していただけるだろうと考えていた。しかし東野さんは「……それは話しても、いつも全然伝わらない」と語り始めた。
「あの時代は日本人であれ外国人であれ、もう本当に良心のかけらもなかった。だから私はいつも、『戦争は悲惨と愚劣以外の何物でもない』と折に触れて言っています。でも戦争があったこと自体を、忘れている人たちばかり。戦争というと何か特殊な状況下での特殊な人たちの話で、自分からは遠いものだと今の人たちは思っているのか。そして頭では『戦争はいけない』と分かっていても、なぜ戦争をしてはいけないのかということまでは、分かっていないのではないか」
26年2月に生まれた東野さんは、45年4月に九帝大の医学専門部に進学した。東野さんはとくに医師に憧れていたわけではなく、「志など到底立てられる状況ではなかった。ただ、どさくさに紛れて進学した」のだと言う。
いざ入学すると医局員のほとんどが軍需工場に動員されていて、授業の見通しは全く立たなかった。東野さんは解剖学教室第二講座の平光吾一教授の手伝いをすることになったそうだ。
「平光先生は旧制一高から帝大に進んでチューリッヒ大学にも留学して、日本解剖学会の代表として国際会議でも活躍していた。当時の脳神経外科分野では、世界有数の腕を持っていたと言っていい先生でした。私はあの先生に出会って、人生が変わりました」
平光教授との出会いは、志を持っていなかった東野青年に希望をもたらした。しかしわずか1カ月後、運命を変える出来事に二人は巻き込まれる。
「どうせ死ぬのなら、医学に役立てる方法はないか」
45年5月17日午後、平光教授は朝から不在にしていた。東野さんは解剖学教室で、歌人としても活動する教授の、歌集の原稿整理をしていた。トイレに立った東野さんは、見知らぬ医師数人と看護師二人が何かを待っているのを目にした。トイレと解剖学教室の間にある解剖実習室に器材が運び込まれていたが、解剖があるとは聞いていない。不審に思い近付くと、「捕虜はまだ来んのかね」という会話が聞こえてきた。
その6日前、かかってきた電話の相手に平光教授が「アメリカ兵?」「負傷兵を手術?」「君の手術室をなぜ使わないんだね」などと言っていたのを、東野さんは思い出した。しかし当時の九帝大医学部は、科を越えて部屋を融通しあっていたから「アメリカの負傷兵」は気になったものの、解剖実習室を使うことに疑問はなかった。
程なくして陸軍の護衛兵に付き添われて、目隠しされた二人の白人がトラックに乗せて連れてこられた。東野さんは「解剖実習室はどこか」と聞かれ、彼らを誘導することになってしまった。
45年5月5日、福岡県にあった大刀洗(たちあらい)飛行場を爆撃した米軍のB29が、熊本、大分県境の上空で日本軍の紫電改の体当たり攻撃により墜落。機長1人と11人の乗組員のうち、一人は墜落死、一人は自殺、そして一人は村人に射殺され、残りは捕虜にされた。これを知った大本営参謀本部は、九州地方などを管轄していた西部軍司令部に「機長のみ東京に移送し、他は適当に処置せよ」という暗号指令を出した。西部軍司令部の佐藤吉直参謀大佐は、軍関係者用の「偕行社病院」に勤務する、九帝大出身の小森卓見習士官に相談した。小森士官はその後空襲で亡くなり、二人の間でどんな会話が交わされたのかという公的記録はない。
しかし、捕虜たちはいずれ銃殺刑になる。彼らは無差別爆撃を何度もやった前科者で、参謀本部も移送を断っている。どうせ死ぬのなら、医学に役立てる方法はないか、と二人の間で話が進み、小森士官が九帝大医学部第一外科の石山福二郎教授に話を持ち掛けたことで、「実験手術」をすることになったのだと東野さんは言う。
ある捕虜は胸に猟銃を打ち込まれて、負傷していた。傷が肺に達していたら、肺化膿症を起こして死ぬかもしれない。しかし片肺を摘出する手術をして成功すれば、肺の空洞に苦しむ結核患者を救うことにも繋がるのではないか。そして戦時下では輸血に必要な血液が足りないが、海水が代用血液として使えることが証明されたら、多くの患者が助かるのではないか。肺摘出と代用血液の実験をしたいという、石山教授の欲望がそのようにうずいた。同時に軍に非協力な姿勢を見せることは、当時の九帝大ではおよそ不可能だった。
こうして代用血液の注入や片肺の切除手術などが、小森士官らによって米兵捕虜に施された。東野さんは平光教授不在の中で侵入してきた一団が気になり、解剖実習室をつい覗いてしまう。「これはいちかばちかの大手術だ」と自分に言い聞かせながら見ていたが、「暇なら手伝ってくれ」と言われ、代用血液の入ったガラス瓶を約30分間抱えることになってしまった。
GHQ裁判は、本当にいい加減なものだった
敗戦後の48年3月、西部軍および偕行社病院と九帝大医学部関係者は、GHQによる戦犯裁判横浜法廷で裁かれることになった。東野さんは尋問を受けたものの起訴は免れたが、平光教授は起訴された。
手術は5月17日、22日、25日、6月2日の計4回行われ、東野さんは立ち合いを2回した(17日と22日)。平光教授はうち3回を不在にしていたが、25日は解剖実習室を訪れてしまった。その際開頭手術をしていた術者に「三叉神経の走行は、この辺りどうなっていますか?」などと質問され、あまりの手際の悪さを見かねて「切開の場所が違う」などと指導的発言をしてしまっている。解剖実習室の責任者だったことや医師としての発言が、彼を窮地に追い込んだのだ。
「普通の手術だったら、聞かれたらそう答えるのが当たり前のことを平光先生は言っていたに過ぎない。それに先生は空き家同然の廃屋だった解剖実習室の責任者だっただけ。