なのに言い分は一切認められなかった。あの裁判は立場も利害も違う西部軍と偕行社病院、九帝大をまとめて一緒に裁いた、勝者による勝手な裁判でした」
『B、C級戦犯相原ケース』と呼ばれたこの裁判を、東野さんは「勝者による勝手な裁判」と断罪する。西部軍は隠蔽工作を行い、更に石山教授は「平光君すまぬ」と書き残して、逮捕4日後に首つり自殺。連合軍検事側の証人にされた東野さんは、事前に打ち合わせされたこと以外の発言が一切許されなかった。平光教授に不利な状況のなか、知っていることも見たことも正直に語れないまま、裁判は進行していったのだ。
「全く歴史的裁判というものは、本当にいい加減なものやなと。この事件に関わった私の精神的な傷は癒えないどころか、PTSD(心的外傷後ストレス障害)となって二度も入院しました。80代になってからも苦しんで、睡眠薬も精神安定剤も効かなくて。普通なら心の傷は時間が経てば癒えるものだけど、私のはずっと消えないままです」
遠藤周作に抗議するも、返事はなかった
心の傷の原因は、震えながら解剖実習室に入る捕虜の姿と手術を目撃してしまったことが大きい。「あれを思い出すと、今でもおかしくなりそうになる」と目を伏せるが、遠藤周作による小説「海と毒薬」も、東野さんを深く傷付けた。
熊井啓により86年に映画化もされたこの作品には、信仰を持たないからこそ神の罰を信じず、死ぬことが決まっているからと、同情心なく捕虜を解剖する医師たちが描かれている。更に手術後に軍関係者が宴会を開いて、そこで捕虜の肝臓を食べることを示唆する描写もある。裁判でも「猟奇的な残虐行為」として取り上げられた肝臓嗜食容疑には証拠がなく、この嫌疑をかけられた者は全員無罪となっているにもかかわらずだ。
もちろん遠藤周作は、フィクションとして書いている。しかしこのベストセラー小説は、読み手に「こんな事件だったのか」と錯覚させる説得力に溢れていた。
「マスコミも戦後、事件を面白半分で猟奇的なものとして扱いました。主導権は西部軍司令部にあったのに『九大』と喧伝したことで、あたかも九大主導で進めたかのような印象を与えてしまった。解剖も捕虜が亡くなってからしているのに、『生体解剖事件』と名付けたことにも大きな誤りがある」
東野さんは遠藤周作に抗議の手紙を送ったが、返事はなかった。そこで69年、事件を調査することを決意した。平光教授の裁判記録を読み漁り、B29乗組員を殺害した村人など関係者を約10年かけて訪ね歩いた記録は、「汚名『九大生体解剖事件』の真相」(文藝春秋、1979年)という本に収められている。
なぜ「汚名」なのか。それはひとえに、平光教授の名誉を回復したい一心だったからと、東野さんは言う。平光教授は25年の重労働の刑を科せられ、9年6カ月を獄中で過ごしたのち、55年に恩赦により拘置所を出た。大学からは追放されていて戻る場所はなく、研究も断念せざるを得ない。彼に与えられたのは、戦犯受刑者としての汚名だけだった。そして67年、都内の小さな診療所で医師をしていた平光教授は、3年間の闘病を経て亡くなった。
「事実を知っていたのに、検事側の証人にされたために証言できなかった」まま、才能溢れる医師であった平光教授はキャリアを奪われ、寂しく亡くなった。その怒りと傷が産婦人科医として多忙な日々を送っていた東野さんを駆り立て、『汚名』が生まれた。
「捕虜の死体を見た時のことを思い出すと、今でもおかしくなりそうになる。だからあの本を書くのは、刀で心臓を刺される程苦しかった。でも事実をこの先100年でも200年でも残しておきたかったし、書かないと自分も生きていけないと思った。何より自分にとって神様みたいな存在だった、平光先生の冤罪を雪(そそ)ぎたかった。自分は悲惨な時代を生きたけれど、こうして書き残しておかなきゃいけないことがあったから、90年以上生きてこられたのかもしれない……。それにたくさんの人の証言などを通して『戦争とはこういうものだ』ということも伝えたかった」
果たして彼らは、真の悪人だったのか
実験手術を主導し、戦後は隠蔽しようと暗躍する西部軍関係者や、彼らに逆らえなかった九帝大医師たち。自分たちだけが正義であるかのごとく、一方的な裁判を進めたGHQ。アメリカ人を殺した過去を、語ろうとしない村人。『汚名』の登場人物からは、人間の持つ弱さや愚かさや傲慢さが読み取れる。「患者を助けることに全ての意欲をかける。顕示欲、名誉欲といったものですら、その中にしか存在しない」と言っていた石山教授ですら、結果的に加担している。
しかし絶対的な権力を持つ軍に、逆らえた者が果たしていただろうか。被害者側の米軍捕虜たちだって、日本人相手に無差別爆撃を繰り返していた。ましてや日本人の誰もが「鬼畜米兵」と信じ込んでいた時代でもある。
「医学部っていうのは命を助ける所で、病気を治そうとする所。なのに健康な人間を医師も手伝って殺害した。それが出来てしまったあの時の心は、今思い出しても恐ろしい」
起きた「事件」は確かに残虐非道だが、東野さんは『汚名』の中で、こうも語る。
「その人たちが、あの切迫した時代背景の中で演じたもの――それを深く、裏側から洞察した場合、果たして彼らは、裁かれるべき真の悪人だったろうか。私は事件の根源へのベールを剥がしていくうちに、そこに戦争の真の悲惨と愚劣が生々しく存在していることが分かってきた。この戦争と悲惨は、どんなに表現しても、今の若い世代にはわかってもらえないかもしれない」
確かに特攻などで戦死した者をことさら美化したり、逆に戦時下の暴力に手を貸した者を悪魔扱いしたりと、敵か味方か善か悪かだけで見ている人にとって戦争は「消費するコンテンツ」でしかなく、自分とは無縁の出来事に過ぎない――。東野さんは当事者として声をあげる日々の中で、そのことを痛感してきたのだろう。
「戦争を反省する日」の制定が、戦争の抑止力になる
当事者だった九大医学部も、東野さんが集めた事件の資料を医学歴史館に展示することを断ったそうだ。戦争なんて忘れたい、消したい、関係ない、自分に都合よく物語化して消費したい。そんな空気が蔓延しているように思えるが、それでも東野さんは語り続ける。『汚名』は版元品切れになったままだが、91歳を迎えた2017年、遺言のつもりで『戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない』(文芸社)を自費出版したのだ。
「昨年の4月頃、米朝関係が危機一髪なのを見て書こうと思ってね。私は戦争を経験してるからどれだけ恐ろしいものか分かっているけど、世界中の政治家に、全然危機感がないように思えて。それでまとめました。
……我々みたいな古い人間はもうすぐいなくなるから、マスコミは戦争について通り一遍のことを書いて終わりにするのではなく、常に気持ちを向けて欲しい。そのために『戦争を反省する日』を1年に1回くらい作って、絶えず考えていくべき。1945年3月の東京大空襲では10万人近くが亡くなっているし、広島と長崎は原爆による深い苦しみを経験している。戦地では餓死した人も多い。このように戦争というのは何一つ良いことはないということを常に言い続けて、皆で考えていく必要があると思うんです」
東野さんは伝わらない苦しさを抱えながらも、命ある限り言い続けるのだ。「戦争とは敵も味方もなく、悲惨と愚劣以外の何物でもない」と。