日本と韓国の間に、ギクシャクした空気が流れている。
もちろんこれまでも、ずっとギクシャクはしていた。しかし2002年のFIFAワールドカップ日韓共催時よりも、12年に李明博(イ・ミョンバク)元大統領が竹島に上陸した時よりも、その空気は冷たく尖っているように感じられる。
色々言い分はあるだろう。しかし国家と国民は違うし、相手を排除することを人々が受け入れたら、それが何に結び付くかは歴史が示している。周囲がナショナリズム的な空気に染まりつつある中、自分はどこまで飲み込まれずにいられるのか。
叫び出したい気持ちを抱えていた時、一人の女性を思い出した。彼女の名は金子文子。1903年(04年説もある)に横浜市で生まれ、少女時代を朝鮮半島で過ごし、在日朝鮮人アナキストの朴烈と恋に落ちる。そして二人とも大逆罪で捕らえられたのち、彼女は23歳で宇都宮刑務所栃木支所で亡くなっている。
そんな文子は2017年に韓国で公開された映画『金子文子と朴烈』(イ・ジュンイク監督/原題は『박열[朴烈]』)で、ヒロインとして描かれた。この映画で文子を演じた女優のチェ・ヒソさんは、文子のことを「自由を求めて戦っていた、力強い女性。愛する男性とともに国を超えて戦った彼女の姿は、現代の人たちに大きな影響を与えるのではないか」と言う。
なぜ金子文子の存在が、今を生きる人たちに影響を与えるのか。文子の生き方に果たして、凍った日韓関係を解かすヒントはあるのか。ヒソさんへのインタビューと文子の著作をもとに考察したい。
ともに少女時代を日韓で過ごした
金子文子は父親と母親が入籍していなかったことから、無籍者(無戸籍児)だった。親から愛情を与えられることや、気に掛けてもらえることもなく育った。学校に行きたかったのに通わせてもらえず、貧民窟の長屋の私塾で学ぶことが精いっぱいだった。
私は本を読んでみたかった。字を書いてみたかった。けれど、父も母も一字だって私に教えてはくれなかった。父には誠意がなく、母には眼に一丁字(ていじ)もなかった。母が買い物をして持って帰った包紙の新聞などをひろげて、私は、何を書いてあるのか知らないのに、ただ、自分の思うことをそれに当てはめて読んだものだった。(金子文子『何が私をこうさせたか――獄中手記』[岩波文庫、2017年]より)
やがて、父は母の妹と出奔し、母は別の男と同棲を始める。暮らし向きが悪くなった母は、文子を娼妓として売ろうとするも断念。文子は母とともに男の実家のある山梨に滞在したのち、1912年に朝鮮に住む祖母の元に引き取られることになる。
こうして日本から朝鮮半島に渡った文子とは対照的に、ヒソさんは8歳から12歳まで大阪市に暮らしていた。
「子どもの頃の私、すごくいたずらっ子でした。いつも走り回って、いつも冗談とか言って。それで小学5年生の時に、学芸発表会の演劇で主役になったんです。『沈清伝(シムチョンジョン/目の不自由な父のために、我が身を犠牲にした少女の伝説)』って知ってますか? その沈清を演じたんです。その時に演技ってすごく面白いなと思って。その記憶があったので高校でアメリカに行った時も、ソウルで大学に通っていた時も演劇をしていました」(チェ・ヒソさん)
幸せな記憶が女優の道につながったヒソさんが文子役に抜擢(ばってき)されたのは、日本語が堪能だったことも大きい。
苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ
1910年代の文子の朝鮮での生活は、悲惨極まりないものだった。忠清北道の芙江という田舎にあった祖母と叔母の家は、地元では有力で、朝鮮人相手の高利貸しをしていた。当初文子は、叔母の養女になる予定だった。しかしこの「お上品」な家の娘にするには、逆境で育った粗野な文子は似つかわしくない。そう判断した祖母たちは文子を下女として扱うようになり、食事もろくに与えず体罰を加えた。
ある時、文子は空腹のあまり家を出たが、行く当てはない。そこへ知り合いの朝鮮人のおかみさんがやって来て通りかかり、「麦御飯でよければ、おあがりになりませんか」と声を掛けた。
朝鮮にいた永い永い七ヶ年の間を通じて、この時ほど私は人間の愛というものに感動したことはなかった。
私は心の中で感謝した。胃から手の出るほど御飯を頂きたかった。けれど私は祖母たちの眼を恐れた。――鮮人の家などで貰って食うような乞食はうちに置かれない、と怒り出すにきまっている祖母を恐れた。(前掲書)
文子の祖母と叔母は常日頃朝鮮人をバカにし、使用人を嘲笑することすらあった。だから文子は、朝鮮人のおかみさんの優しさを受け入れることがどうしてもできなかったのだ。そしてこの直後、空腹と身内への絶望が極まった文子は、「いっそ死んでしまおう」と自殺を試みる。当時わずか13歳だった。
「文子の本を読んで一番悲しかったところは、13歳の時に自殺を試みたことです。13歳の時の私は、生と死とか全然考えたことがなかった。なのに彼女はもうそんなことを考えていたなんて。私は(ヒソさんが出演した映画)『空と風と星の詩人 尹東柱の生涯』(2017年日本公開)の制作中にイ監督が、『こんな人がいたんだよ』って文子の写真を見せてくださったことで彼女を知り、韓国で翻訳された自伝を読みました。そして自殺しようとした際に『そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ。そうだ、死んではならない』と考えたところに、強く感動したんです」(チェ・ヒソさん)
女性としてではなく、同志としての愛を望んだ
映画『金子文子と朴烈』の冒頭で朴は、東京で人力車を引いている。日本人客からまるで野良犬のようにさげすまれている彼はその頃、一編の詩を雑誌に発表する。題名は『犬ころ』だ。
1919年に帰国し、その後上京した文子は、この詩に深く心を奪われて烈を訪ね、交際を申し込む。