権赫泰『平和なき「平和主義」』(法政大学出版局)は、戦後日本の「平和」なるものが、いったいどのような条件で成り立っていたのかを鋭く問う著作である。本書は戦後日本が「平和」を謳歌する一方で、朝鮮半島が分断を余儀なくされ、戦争と軍事政権といった「不平和」を経験してきたという、戦後の日韓両国の非対称なあゆみとその相互関係に着目している。日本の「平和主義」は、韓国に戦闘基地としての役割を、日本に兵站基地としての役割を割り当てて分業させるという、「冷戦」体制下におけるアメリカの対アジア戦略の産物でもある。戦後日本が「平和」であったのは、アメリカが在日米軍を沖縄に駐屯させ、他方で韓国に軍事的なバンパーとしての役割を担わせていたからこそだ、と権は指摘する。
戦後日本が「平和主義」を貫けたのは、周辺地域が軍事的なリスクを負担していたためであるなら、日本一国の「平和主義」を賛美するだけで話はおわらない。それがアジア全体の軍事的な配置や戦闘とどのようにつながっていたのかを、改めて見つめ直す必要があるだろう。
だいぶ話が複雑になった。日頃見ずにすんでいる国家の暴力を意識することは、自分の身の回りの「平和」が、見えないところでどのような事態と結びついているのかを意識することにつながる。平和/戦争、暴力/非暴力というカテゴリーを問い直すことから始めたのは、このためである。
もちろん、国家によって独占された暴力は、立憲主義的・民主主義的な諸制度によってコントロールすることになっている。だが現状が示しているのは、そうであるにもかかわらず、主権者が国家の軍事力の発動を制御することが困難な局面が生じうることだ。この局面で、国家の暴力を抑制するために、いったい何ができるのだろう。目の前のことだけでなく、日米安保体制や東アジアとの関係まで視野に入れるとなると、結局のところ、何ができるわけでもなく、何をしても意味がないようにも感じてしまう。
足元から考えることで始まる「戦争反対」
けれども、それほど大仰に構えなくてもよいのかもしれない。先に紹介した対談において、沖縄の深刻な状況を議論していった末に、新城は「各自がそれぞれの現場で、どのような抵抗や、命を大切にする力をみんなでシェアするか。それは常に自分の身の回りの変革であって、何でもない日常から始まることでもありますよね」とも述べている。
自分の身の回りや日常から始める。鍵となるのは、いつもそこにあるのに見ないですんでいる国家の暴力に対して、意識的・自覚的になることだと先に述べた。自分の足元がいったいどのように成り立っていて、何とつながっているのかを知ること。それを見えづらくさせている政治・社会のあり方について考えること。それが一番大事なことであり、ヘタレにもできる何よりの反戦的なふるまいではないだろうか。
そうであれば、体を張らなくてもできることはおそらくある。例えばここで紹介した本を含め、図書館で何か一冊手にとってみること。歴史学を専攻する私としては、歴史をとおして見えてくるものがたくさんありますよ、とおすすめしたい。でもそれだけでなく、少し余裕があるときに関係する映画を観たり、さらに余裕があれば講演やトークイベントに足を運んだり。そして、それを親しい人に話してみたり。生活の維持で手一杯だからこそ、感じとれ、理解できることがあるかもしれない。まったく想像できないこともあるかもしれない。それがどのようなものであれ、日頃見えてこない問題のほうに、できる範囲で、少しずつ自分を開いてみる。ヘタレの反戦は、そうしたことからきっと始まるだろう。