付言すると、十数年前から北部全域では実質的な基軸通貨は中国の人民元になっており、人々は物の価値を測る時に人民元で考え、計算するようになった。
一家の大黒柱は「主婦」
ヒャンミさんは「主婦」である。身分登録は「扶養」と分類されている。北朝鮮では成人すると原則的にすべての人が何らかの職場に配置される(進学と軍入隊を除く)。そこで組織の統制を受け、政治学習や奉仕労働や反省会などに動員される。これを「組織生活」という。北朝鮮における人民統制の基本システムである。
職場配置が免除され、市場で商売を許されるのは家庭の「主婦」と退職した老人たち、つまり「扶養」の人たちだ。そのため多くの女性が、待遇の悪い公的な職場を辞めて身分を「主婦」にする。未婚女性も賄賂を使って「主婦」となる人が多い。
男はというと、配給も給料もろくに出ないのに当局が配置した職場に出勤することを強要されている。職場に縛り付けて「組織生活」で統制するためだ。無断で職場を離脱したり、商行為をしたりすると処罰の対象になる。悪質だとみなされると1年未満の短期強制労働施設の「労働鍛錬隊」に送られる。こんな理由で、多くの家庭で生計を立てているのは「主婦」なのである。
両江道(リャンガンド)に住む取材協力者のオクさん(仮名)は夫が地方の行政職の幹部をしていて、公定の給料は安いが賄賂収入がある。オクさん本人は中国から輸入された衣類や雑貨を、地方からやってくる卸売商にあっせんする仕事をして 1カ月に1000元(約1万7000円)程度を稼いでいる。彼女も身分は「扶養」だ。中国国境に近い地域の住人にはこうした商機が多く、北朝鮮の中では恵まれている方だ。
三度の食事について訊くと「朝は白米を炊き、昼はトウモロコシそば、晩は朝炊いたご飯の残り。おかずはキムチとジャガイモが多く、豚肉を月に数回食べます」とのことだ。今の北朝鮮ではかなり生活水準が高い方だといえる。
軍隊に行くと栄養失調になる
15年春、オクさんの息子が軍隊に入った。そのため、数カ月に一度、現金や食べ物を差し入れるために息子の部隊がある南部の黄海道(ファンヘド)に通うようになり、私たちとの取材の仕事も滞りがちになった。足繁く息子のもとに通う母の姿を想像すると微笑ましくもあるのだが、オクさんは毎日息子のことが心配でならない。軍隊で事故に遭ったり、栄養失調になってしまうかもしれないからだ。
「親たちは、子どもが配置された部隊近くの住人や将校にお金を渡して、息子・娘が部隊から外出した折に立ち寄って豆腐の一丁でも食べられるよう手配するのです」
オクさんは差し入れの仕組みをこう説明する。
北朝鮮では、満17歳で高等中学校を卒業すると、進学しない限り、男子は11年間軍に服務しなければならない。女子は選抜制で7年だ(2017年から男子12年、女子7年の義務制になったという情報もある)。国連人口基金によれば北朝鮮男性の平均寿命は68歳なので、人生の6分の1近く、しかも青春の大切な時期を兵営で過ごさなければならないことになる。
朝鮮人民軍の兵員数は100万超とされる。人口比でざっと5%、日本でいえば625万人相当だ。兵士たちは民衆の息子・娘たちだ。身内や知人、近所の人の中に軍隊に行っている子どもを持つ人が必ずいるため、誰もが兵士の待遇の劣悪さを知っている。
大兵力を養う財政のない政府は、特殊部隊や空軍など優遇される部隊を除いて、兵士を食べさせる食糧をまったく確保できていない。その上、支給された食糧を軍幹部たちが現金欲しさに市場に横流ししてしまうため、末端の兵士にまで食べ物が行き渡らない。軍隊に行くと栄養失調になるというのは北朝鮮では常識になっている。
「今年(17年)は栄養失調になって部隊から実家に戻されたり、脱営して逃げて来る兵士が多いですね。近所にも何人かいて『死ぬなら親と一緒に死ぬ。もう部隊には帰らない』という子がいました。皆、仕送りする余裕がない庶民の子どもたちです」(咸鏡北道の取材協力者)
幹部や金持ちは賄賂やコネを使って待遇が良く勤務が楽な部隊に子どもたちを送ろうとする。また、医師に賄賂を渡して重病だというニセの診断書を作成してもらい兵役を逃れようとするケースも少なくないという。
北朝鮮では不正な入隊忌避は犯罪だ。また軍隊に行かないと出世の条件である労働党への入党が困難になるが、「党員になんてならなくても商売をしっかりやって金を稼げればいいと考える人が増えています」とオクさんは言う。
取材協力者たちに将校の待遇について調べてもらったが、家庭を持つ40歳の少佐クラスで月給は公定の8500ウォン(約112円)程度で、食糧配給は本人分だけ。やはり妻が市場で商売をして稼がなければやっていけない。
「将校たちは皆しんどそうですね。昔は将校というと、国から家ももらえ、配給の白米はもちろん副食も優先配給されて、若い女性たちの嫁ぎ先人気ナンバーワンだったのに、今では敬遠されています」(ヒャンミさん)
収入の乏しい将校たちは、部隊の備品や食糧を横流しするようになる。士気も規律も下がるしかない。17年に軍事境界線を越えて直接韓国に亡命した兵士は4人に上った。背景には、このような軍隊の待遇悪化と規律の乱れがあると思われる。
政府は商売の邪魔をするな
北朝鮮の食糧配給制は「食わせてやるから言うことを聞け」というシステムであった。それが崩れて20年以上が経ち、庶民のほとんどは国に依存しない経済活動によって現金を得て、市場で食べ物を買って暮らすようになった。そのためだろう、自立して生きてきたという自負を口にする人が増えた。
「政府がくれるものがありますか? 何かしてくれたことがありますか? 20年前から私たちは、自分たちの足で、頭で働いて稼いで食べてきたんです。