こうした日本軍に特徴的な「特異な死」の実像を知ると、日本軍において兵士の生命があまりにも軽く扱われていたことを痛感する。どうしてそんなことになってしまったのか。
吉田さんはその原因として、国力を超えた軍備、軍内の“身分格差”、精神主義の三つを挙げる。
「国力の限界を超えた軍備を持ったことがそもそもの原因です。日本とアメリカは、当時のGNPで見ると1対12の差があるのに、海軍は対米7割の艦隊を保有しようとしてワシントン海軍軍縮条約の締結に抵抗したし、陸軍はソ連と戦争できる兵力と装備を備えようとしました。そうなると、使える資源を全部、正面装備に集中させないと追いつかない。その結果、作戦至上主義となり、短期決戦主義となる。補給や情報、兵士の健康といった課題は全て後回しにされてしまった」
二つ目の原因は、軍組織を貫いていた“身分格差”だ。陸軍では陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した人々、海軍では海軍兵学校、海軍大学校を卒業した人々が一定以上の階級をほぼ独占していた。「彼らは非常に強いエリート意識をもち、兵士や下士官をひどく蔑視していました。兵士の人命軽視の背後にはそれがある」。
兵士からたたき上げで将校に昇進することはごくまれで、それもほとんどが尉官クラスどまりだったという。エリート出身ではない人は昇進してもエリートから差別されたという。吉田さんによれば、たたき上げでありながら撃墜王と呼ばれるまでに至った操縦士の坂井三郎でさえ、食べ物や酒、たばこの配給から寝る場所に至るまでエリートによって差別されたと書き残しているそうだ。
「しかも彼らは、いわゆる“学歴エリート”なのです。学校の成績によって昇進が決まるのです。そのために現場を知らない指揮官たちが育ってしまう」
三つ目が「精神主義」である。
「精神主義の源流には、『戦闘の決は銃剣突撃をもって決する』という日露戦争の誤った総括がありました。兵士が銃剣で敵軍兵士と戦う白兵突撃や夜襲が奨励されるようになったのです」
それでも、日露戦争の後、第一次世界大戦でのヨーロッパの教訓を踏まえて、いったんは見直しが行われたのだが、満州事変以降、結局は元に戻ってしまう。
「象徴的なのは陸軍将校が腰に吊るした軍刀です。これは敵を斬る武器として持つものではなく、あくまで指揮刀であり、服制で洋装のサーベルと決められていました。ところが満州事変後の34年、日本精神とか大和魂とかが強調される中で服制が改正され、サーベルから日本刀に変わります。38年にはより実戦向きの種類の日本刀になりました。軍の自称も、『わが国軍は』から『わが皇軍は』に変わります」
日本は特別な国だ。困難は大和魂で乗り越えるのだ。こうした精神主義がはびこるなか、物量の不足は精神力で補えといった言説が公然とまかり通るようになり、それはそのまま兵士の負荷の増大につながっていく。
「内務班に見られたような、兵士は殴って育てるのだといった発想も、大正時代には見直しの動きがあったのです。一方的に抑えつけるのではなく、納得した上の自覚的な服従を促そうと。それが徹底される前に満州事変が起こり、精神主義に回帰してしまったのです」
矛盾は兵士たちにしわ寄せされる
こうして、日本軍が持つ様々な問題や矛盾は、戦況の悪化と共にますます兵士の肉体によってあがなわれることになった。この『日本軍兵士』という本はその実相を、兵士が背負う装備の重さ、休暇の不在、虫歯治療の不在、精神的ストレスの放置、軍装、糧食といった様々な面から描き出している。
吉田さんは静かに、しかし怒りを込めて当時の政府や軍の指導者たちを批判する。
「当時の日本は輸出入の多くをアメリカに頼っていた。それを思えば、そもそも対米戦を絶対に回避することを前提に戦略を立て、その下で軍の編成や兵力量を考えておくべきだったのです。ところが統一した国家意思すらないまま戦争に突入していった。その上、補給も壊滅し、もう戦争を継続することが不可能な段階になっても、軍人たちは『もうこれ以上戦えません』と言わなかった。戦争のプロであれば、それを言うべきだったのです。ところが彼らはそれを言わず、兵士たちに無理を押し付けた。もはや軍人とは呼べません。単なる『軍事官僚』ですよ。いったい、兵隊の命を何だと思っていたのか」
冒頭で触れたように、『日本軍兵士』の多くの読者は、日本軍の組織体質とその下でひどい死に方をさせられていった兵士たちの状況に、今の日本に通じる問題を見たようだ。吉田さん本人は、どう考えているのだろうか。
「この間の公文書改ざんや隠蔽(いんぺい)といった事件を見ていると、戦前と体質が変わってないなと感じます。公文書を保管し、公開することで政策決定を検証できるわけで、改ざんなんて言語道断です」
確かに、森友問題における公文書改ざんや、防衛省の南スーダン日報 隠蔽問題などを見ると、敗戦時に政府や軍が公文書を焼却した史実を連想する。吉田さんは更に、社会の中にも「日本軍兵士」の影を見る。
「ブラック企業。過労死。非正規労働者への差別待遇。あの本の読者の多くが、そういうことを想起しながら読んだのでしょう。批判を受け入れない体質、人命を尊重しない体質が、社会を支える根本の発想の中に今も生きているのではないでしょうか」
吉田さんは更に、「現実が変わらなくても考え方の方を変えろというポジティブシンキングなんていうのも、精神主義の真骨頂だよね」と皮肉っぽく笑った。
ブラックな戦争へのささやかな抵抗
昭和初期の日本社会や軍隊の中に、21世紀の日本の政治や社会とよく似た光景を見いだせるというのは憂鬱な事実だ。満州事変以降の日本が、大正デモクラシーの時代よりむしろ後退していったのだという指摘にも、ますます憂鬱になる。その結果、私たちの祖父、曽祖父たちは、兵士として「ブラック」な扱いを受けることとなった。
だが吉田さんは、人々が無謀な戦争に動員され、理不尽な死に方をさせられた時代にも、それに対してささやかな抵抗を試みた人々がいた事実を指摘する。
「大正デモクラシーの中で育った兵士たちは、時に上官に怒りをぶつけることもありました」
それだけではない。仮病を演じて戦地から逃れた歩兵や、わざとエンジントラブルを起こして特攻出撃をしなかった操縦士、「立派に戦って死んでこい」と言わずに「必ず帰ってこいよ」と言って孫を戦地に送り出したおじいさん、おばあさんたちもいたという。
ぎりぎりの抵抗だが、ここにかすかな希望を感じないでもない。
あの総力戦のさ中であっても、誰もが理不尽な扱いや死の強要に従順に従ったわけではないのだとすれば、現代の私たちもまた、事態がもっとひどくなる前に声を上げることで、人命や人権を尊重しないブラックな政治や社会を変えていくことが可能かもしれない。ましてや、再びブラックな戦争に引きずられていくのを未然に防ぐことは、まだ十分に可能なはずだ。