アジア・太平洋戦争が終わってこの8月で73年が過ぎた。当時を知る人はますます少なくなっていく。日本人が中国や太平洋の各地で戦争をしていたなんて想像もつかない世代も出てきている。ところが今、2017年12月に出版された『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)という本が売れ続けており、既に発行部数は14万部を超えるという。著者で歴史学者の吉田裕さん(一橋大学大学院特任教授、63)の研究室を訪ね、お話を伺った。
兵士の目線から戦場の現実を見る
天井の高い研究室。壁の棚にはびっしりと本と資料が並んでいる。その前に座る吉田さんの物静かなたたずまいは、感情を排して淡々と戦争の悲惨な現実を伝える『日本軍兵士』の筆致に通じるものがあった。
吉田さんは、主に近代日本における政治と軍の関係を研究している。『日本人の戦争観』『現代歴史学と軍事史研究』といった研究書を多数刊行してきたが、これほどまでに広く読まれるのは初めてのことだという。「日本軍兵士の境遇に現代の状況を重ねて読んでいる人が多いのではないでしょうか」と分析する。実際、ネットの書評などを読むと、当時の日本軍兵士の境遇から、ブラック企業や過労死といった現代の問題を連想している人が多いようだ。
『日本軍兵士』は、アジア・太平洋戦争期の日本軍兵士が置かれた状況に焦点を当て、「『兵士の目線』で『兵士の立ち位置』から戦場をとらえ直してみること」(同書「はじめに」)を目的として書かれた本だ。そして、兵士たちの扱われ方や心身の健康を検証していくなかで浮かび上がってくるのは、確かに、日本軍という組織の「ブラック」体質なのである。
4~6割が「餓死」だった
端的にそれが見えるのが、この時期の日本軍に見られる「特異な死」である。吉田さんはそのあり方として戦病死、海没死、特攻死、自殺/処置の四つを挙げる。その中でも最も大きな比重を占めるのが「戦病死」だ。
「アジア・太平洋戦争では230万人の軍人・軍属が死亡しました。そのうち半数以上が戦闘死ではなく、戦病死なのです」
つまり、兵士の半数以上が、敵軍との戦闘で命を落としたのではないのである。そして「戦病死」の多くが、実質的には「餓死」だったという。
歴史学者の藤原彰氏の推計によれば、1937年の日中戦争開始から45年の敗戦までの間に、栄養失調とそれに伴う衰弱による病気で亡くなった軍人・軍属は140万人に上る。これは戦没者全体の61%となる。歴史学者の秦郁彦氏はこれは過大な数字だとしているが、それでも37%という大変な高率を推定で示しているのだそうだ。兵士の餓死は、戦争末期は特に多かったと見られている。
「これは歴史的に見れば退行現象です。本来、時代が進むほど軍事医療や補給体制の整備によって戦病死の割合は減っていくものなのです。日露戦争(1904~05年)の時には、既に戦病死は26.3%にまで抑えられていました。半数以上の戦病死というのは、近代の戦争では考えられません」
原因は、中国奥地から東南アジア全域まで広がった日本軍の戦線を支える補給が、制空権、制海権の喪失によって寸断され、戦地の兵士たちに食料が届かなくなったことだった。
吉田さんが二番目に挙げた「海没死」も同じ状況から生まれたものだ。海没死とは、艦船の沈没による死を指す。南方に送られる兵士たちを乗せた輸送船は米軍の航空機や潜水艦の攻撃にさらされ、約36万人が亡くなった。日露戦争の戦死者が全体で9万人というから大変な数である。補給線を守る海上護衛戦の発想が希薄だったこと、民間船を改造した運輸船に兵士がすし詰めにされていたため、沈没時の脱出が困難だったことなどが死者を増やした。船団を守る海上護衛総司令部がようやく発足したのは、43年11月のことだった。
三番目の「特攻死」は説明不要だろう。その中心となった「航空特攻」では、44年10月以降に3848人が亡くなった。だがそれによって撃沈できたのは47隻にすぎず、空母や戦艦といった大型艦は含まれていないと吉田さんは指摘する。特攻機は急降下する際にどうしても機自体に揚力が生じてしまい、普通の爆弾投下よりも速度が鈍り、破壊力はかえって小さくなってしまうのだという。
兵営内のいじめと「自殺」
そして、「特異な死」の背後にある問題の根の深さを感じさせるのが、「自殺/処置」だ。
「日本軍の自殺は、諸外国と比べても多いものでした」と吉田さんは言う。「もともと日本軍では自殺が多かった。既に38年には、憲兵司令部の論説に『日本の軍隊が世界で一番自殺率が高い』という表現が出てきています」。
その背景には兵士の共同生活の場である「内務班」における苛烈な私的制裁、つまり「いじめ」があった。
内務班とは、兵営における兵士の生活単位である。大部屋に30~40人が集められ、共に寝起きする。そこは、班長を務める軍曹や伍長、そして先に入隊した「古参兵」が新兵を徹底的にいじめ抜く密室となっていた。新兵は毎晩のように殴られ、あの手この手で屈辱を与えられた。軍は、建前としては「私的制裁の根絶」を強調しながら、実際には黙認していた。これによって命令に絶対服従する強い兵士が育つと考えたからだ。
内務班のいじめは自殺の原因になるだけでなかった。連日連夜の暴力的ないじめによる過労で免疫力が低下し、体の弱い者から順に結核になっていくといった事態も起きた。
自殺は、過酷な戦地ではもっと増えたが、そこでは更に自殺の「強要」が加わった。どういうことか。部隊が敵の攻撃に遭って後退する際、自力でついてこられない傷病兵に自殺を促したのである。40年改定の「作戦要務令」には、退却に際して「死傷者は万難を排し敵手に委(まか)せざる如く勉むるを要す」と書かれた。絶対に捕虜になるなということだ。その後、連合軍の反攻が始まると、傷病兵への自殺の強要や、殺害さえもが常態化する。
生きて虜囚の辱めを受けず
「捕虜になるより自殺しろなんて、不合理としか言いようがありません。捕虜を養う負担を考えれば、捕虜にはならないなんて、敵軍にとってはむしろありがたい話でしょう」
なぜ捕虜になってはいけないのか。41年に東条英機陸軍大臣が通達した有名な「戦陣訓」に「生きて虜囚の辱めを受けず」とあるように、捕虜となることを恥とする思想があったからだ。だが、こうした思想が登場したのは満州事変(31年)の前後だった。
「日露戦争までは、捕虜になるのは恥とはされていませんでした。ロシア軍の捕虜も優遇していたし、俘虜(ふりょ)情報局というものを作って互いの捕虜の状況を伝え合っていました。戦後、帰ってきて村長になった人もいます。ところが満州事変以降、捕虜となることを恥とする思想が強まり、戦陣訓でそれが完成したのです」
日本軍とソ連軍、モンゴル軍が衝突し、日本軍が大敗を喫した39年のノモンハン事件の際には、既に捕虜交換で帰ってきた将校たちに自決が強要されている。
こうした思想の背景には、日本は万世一系の天皇を頂く優れた国であり他国とは違うという考え方が昭和初期に強まったことがあると、吉田さんは指摘する。
「特異な死」をもたらした構造
餓死、海没死、特攻死、自殺/処置。