その誰もが、「買われる」に至るまでに、保護者や教員、スクールカウンセラー、相談機関などの大人への相談、暴力や家出、自暴自棄な行動を繰り返す、うつになるなどさまざまな形でSOSを出していた。しかし、学校や児童福祉施設や医療機関や警察などで、適切な対応をされなかった。大人からのあきらめ、大人へのあきらめを感じながら、助けを求めることをやめ、自分が耐えることで生き延びようとした。そんな時、「どうしたの?」「一人?」「お腹すいてない?」と声をかけてきたのは買春者だったという。悪人による暴力以上に、善人の沈黙と無関心に苦しめられてきた、という声が上がった。
買われるに至るまでの経緯や、買われた経験を通して、トラウマや苦しみを抱えて今も生きている一人ひとりが、もがきながら、それでも伝えようとしている。そこまでして伝えようとするのは、単に自分のことをわかってほしいというだけではない。
「今も同じように苦しんでいる子がいるはず」という想いと、声を上げられない子がいることを知っているからである。ないものにされていることを、知っているからである。「全部わかってもらえる、伝わるなんて思ってない」と、あきらめも感じながら、自分たちが伝えることで何か感じてくれる人や、真剣に考えようとしてくれる人がいるかもしれないと、希望を持とうとしている。
さまざまな理由から、準備していた作品を展示できなくなった子もいた。そうしたメンバーの想いもしっかりと受け止め、例えば『大人に言われた嫌な言葉』のパネル作品では、遠方にいたり、自分が言われた言葉が辛くて書けないという子については代筆などもしてあげた。私は、こうした企画展メンバーの優しさと強さ、思いやりにも触れてもらえたらと思った。
私たちは『買われた』展を終えて想うこと(2)へ続く。
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