仁藤 エリアナさんは2015年のミス・ユニバース日本代表に選ばれましたが、ミックスの方が日本代表になったのは初めてだそうですね。「ハーフが日本代表になるなんて」という心ない声もあったと聞きますが、どういうふうに受け止められたんですか?
宮本 言われていい気はしませんけど、そういう批判がくることは最初からわかっていました。私がミス・ユニバースに出場したきっかけは、友人を亡くしたことなんです。その友人は白人と日本人のハーフでしたが、アイデンティティーに悩んで、自ら命を絶ちました。同じような悩みを抱えている人は、きっとたくさんいる。ハーフである私がミス・ユニバースに出ることで、そういう人たちのために何かできないか。それが大きな理由でした。
日本人にはまだ「人種差別」という問題意識があまり浸透していないように思います。時々、講演会をさせてもらっていますが、関心があるのは海外の方が多いですね。でも私が日本代表になって「勇気づけられた」という声もたくさんもらいました。「自分もハーフだから、今までミスコンに出たいけど出られなかった」という人たちの応募が増えたそうです。少しずつですけど、変わってきたのかな。
仁藤 私の活動の中で出会う子たちの中にも、お父さんかお母さんが外国の方、という子はたくさんいます。ミックスということで小学校のころからいじめられたり、父親が誰なのかわからず、「自分が何者かわからない」と自分のルーツに悩む子も多いです。
宮本 私も1歳くらいで両親は離婚しているので、小さいころは父を知らずに育ちました。子どものころ、「何で自分だけ肌の色が違うんだろう?」と考えましたよ。髪も、もともとアフロスタイルなんですけど、小学校にあがる時にお母さんが「いじめられるから」ってストレートにしたんです。いじめっ子はどこの国にもいると思いますが、日本は日本人が圧倒的に多いから、ハーフは外見で目立ってしまう。それがいじめの原因になるんでしょうね。
仁藤 外見が日本人っぽくないというだけで通報されたり、職質(職務質問)される、という話も聞きます。
宮本 あります、あります。「Passport,please」と言われるから、いつも免許証を見せるんですけど(笑)。でも私は家族に恵まれていたと思います。私がちょっとでも悩んだら、母が「当たり前じゃん」と。「あなたの父親は黒人なんだから。それで真っ白な人が生まれたら、ママが浮気したってこと?」みたいな感じで、冗談まじりにいろいろ教えてくれました。子どもって、まだ知識もないからストレートに物事を言ってしまうでしょ? 親が「これは言っていいこと、言ってはいけないこと」と教えることも大切だと思います。私は母に「人の外見のことをあれこれ言っては絶対にダメ」と教えられました。
仁藤 大人の中にも差別の意識はありますよね。それが子どもに伝わってしまうこともあると思います。お友だちの親から何か言われたことはありませんでしたか?
宮本 ありますよ。すごい差別用語、「くろんぼ」ってよく言われました。
仁藤 ああ……。「朝鮮人!」とか言う人もいますね。私はそう言われても別にイヤじゃないし、朝鮮人でも韓国人でも何人と言われてもいい。だけど、そういう言葉を投げつけることで相手をバカにしたり傷つけようとしている、差別的な意図で言っている、そういう人たちがいることがおかしいと思います。エリアナさんは、嫌なことを言ってくる人に対して、どうしていましたか?
宮本 言い返しはしなかったんですけど、部活でバレーボールをやっていたんですね。それで「この人より絶対、上にいこう」「この人に負けないものを身につけよう」と打ち込みました。子どものころは普通に日本語しか話せなかったんですけど、外見がこうなのに英語がしゃべれないと、からかわれるんです。「じゃあアメリカに行って、英語を勉強しよう」と考えて、中学3年の時、アメリカの父親の元に渡りました。
仁藤 そういうふうに前向きに考えて行動していけるのは、宮本さんは親がちゃんと愛してくれて、「家」という安心できる居場所があったんでしょうね。
宮本 でも実は私も、10代のころに母が家を出ていってるんです。男の人と一緒にいなくなって、今はその人と結婚してますけど、当時は何でお母さんが出ていったのかわからないし、どこに行ったのかもわからなくて、連絡も一切無かった。「捨てられた」と、悔しかったですよ。いじめをはね返して頑張っていたけど、自分にとって本当に大切な母親までいなくなって、「一番大切な人も、私のことが嫌いなんだ」……と。
仁藤 そうだったんですね。
宮本 母が出ていってからはおばあちゃんと、おばさん(母の姉)と住んでいました。ただおばあちゃんは焼き鳥屋さんをやっていたし、おばさんはスナックを経営していたので、夜はいないんです。だから私の家族もパーフェクトかと言われたら、そうではない。給食の牛乳費が払えなくて牛乳は頼めなかったり、おばあちゃんのお店を手伝ってお金をもらったりもしました。
「エリアナのお母さん、いなくなった」と周囲の人にうわさされるのも嫌でしたね。もう佐世保にいるのが嫌になって。とにかくこの環境を抜け出したい、この場にいたくない、とずっと思っていました。それも、アメリカに渡った大きな理由の一つです。
仁藤 アメリカでは普通に高校に通ったんですか?
宮本 そうです。でも途中で辞めて日本に帰ってきました。アメリカにいたのは2年半くらいかな。
仁藤 帰ってきて、またおばあちゃんと暮らしたんですか?
宮本 いえ、福岡市で一人暮らしです。
仁藤 えー! お金は?
宮本 ちゃんと自分で働きました。いろいろしましたよ。バーテンダーやショップ店員、モデルの仕事もしました。
仁藤 一人暮らしする時、部屋の契約はどうしたんですか?
宮本 おばに頼んだり。
仁藤 ああ、おばさんに。寂しくなかったですか? まだ高校生の年齢だったんでしょう?
宮本 全然。そもそも一人が好きだったし、楽でしたね。人にうるさく言われることもないし、自分の好きなようにできるじゃないですか。唯一の安らげる場所じゃないですか。
仁藤 親や家族に対して、嫌な感情でいっぱいになったことはないですか?
宮本 母親に対してはありました。でも、いくら「嫌い」と言ってても、私を産んでくれた母は一人しかいない。アメリカに渡ったり、一人暮らしをしたり、いろいろな経験を積んで、だんだん母に対する気持ちも変わってきたんです。
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