先日、神奈川県小田原市の生活保護を担当する職員が、ローマ字や英文で「保護なめんな」「不正を罰する」などと書かれたジャンパーを着用して生活保護受給世帯の訪問を行っていたことがわかり、さまざまなメディアで報じられた。
公開された写真では、胸の部分にローマ字で「HOGO NAMENNA」や×印のついた「悪」という漢字が書かれている。背中には「生活保護悪撲滅チーム」を略した「SHAT」の文字と、英語で「我々は正義だ。不正を見つけたら追及する。不正によって利益を得るために我々をだまそうとするのであればあえて言おう“クズ”であると!」と書いてある。
小田原市によると、このジャンパーは2007年に当時の係長の発案で作り、これまで64人の生活保護担当職員が自費で購入。記者会見で「仕事が大変な職場でありますことから、自分たちの自尊心を高揚させて当時の疲労感・閉塞感といったものを打破するためにこのような表現をしたと」と説明している(17年1月18日、TBSニュース)。市は「市民の誤解を招きかねないうえ、品位を欠いた表現で不適切だった」と着用を禁止するとともに、上司らを厳重注意とした。
生活困窮者支援に取り組むNPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事の稲葉剛さんは、「福祉事務所において生活保護利用者を支援の対象ではなく、監視・管理の対象として見る目線が支配的であった」のではないかと述べ、市がホームページで生活保護に関して違法性の高い記述(後日修正された)をしていたことを指摘した(http://inabatsuyoshi.net/2017/01/18/2629)。
自分の中の差別意識に向き合って
ニュースを聞いて、私がまず思い浮かべたのは、生活保護受給世帯の子どもたちのことだった。家庭訪問の際などに、このジャンパーを目にした子どももいたはずだ。「HOGO NAMENNA」なんて小学生でも読めるし、このジャンパーを着た市の職員が家に来ることで、「相手が自分をどう見ているのか」を知ることになり、そのことが「世間から差別的に見られている」という理解につながる可能性もあるし、「生活保護は恥ずかしいことだ」と思ってしまうかもしれない。生活保護を利用せざるを得ない状況にある家庭の状況や親を恨んだり、「情けない」と思ったりすることにつながるかもしれない。
さらに、その子どもが将来困った時に「制度を使おう」とか「人を頼ろう」と思えなくなるかもしれない。それは、将来その人の自立を妨げることにつながるかもしれない。
先の記者会見で小田原市の福祉健康部長は、職員がこのジャンパーを「着ていることは承知していたが、受給者に対する差別意識を持っている職員はいない」と説明した。しかし、私は、これは差別であり暴力だと思う。支援を必要としている人をバカにするような発言によって、疲れを吹き飛ばしたり、士気を高めたり、自尊心を高揚させようとするなんて……。
大人が困っている人をいじめる。権力によって威嚇する。それを見ぬふりした大人がたくさんいて、ジャンパーを発案したり、購入した人たちには「差別意識はなかった」と堂々と言う。そういう大人たちの姿は、生活保護受給世帯の子どもだけでなく、メディアなどを通してこの件に触れた子どもたちの意識や感覚にどう影響するだろうか。
大人への不信感や、諦めの気持ちを強くする子どもがいるかもしれない。「助けて」と言えない子どもを増やすことにつながるかもしれない。制度や利用者のことを誤解したまま、支援に関わる人が増えるかもしれない。
差別も、いじめも、ハラスメントもDV(ドメスティック・バイオレンス)も、する側は「そんなつもりはなかった」とよく言う。大人でも、間違えることはある。間違いに気づいた時に、誠意をもって謝り、反省して、自分の意識や行動や、仕組みや体制を変えていくことが大切だと思うが、小田原市の釈明には誠意を感じられなかった。
かつてアフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者だったキング牧師は、「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく善人の沈黙である」と言った。私たち一人ひとりが、自分の中にある差別意識と向き合い続けること、自分の言動から変えていくことが必要だと思う。
生活保護受給世帯の女子高生の声
この件について、私が関わる生活保護受給世帯の高校1、2年生の女の子たちに、どう思うか聞いてみた。
「私個人の意見だと、それこそ生活保護なしでは生きていけなくて、生活保護っていうシステムをちゃんと使えてる人はいいんだろうけど、不正受給とか、使い方を間違えてる人のことばっかり報道されると、世間の目も変わっちゃうんじゃないかなあと思ってしまう。そういうことが報道されるたび、もっともっと生活保護を受けてる人が住みにくくなるんじゃないかなーって」(Aさん)
「あたし、(役所の生活保護担当の)ケースワーカーに、塾や習いごとや部活を始める時は連絡するように言われてて、言ったら『よくそんな余裕あるね』とか『生活費ないのにそういうお金あるんだね』って言われたり、『生活保護なのに贅沢するな』『スマホ持つなんて贅沢だね』とか言われたことあります。役所の人に文句言われたりなんか、繰り返されれば慣れるもんですよ! そういうことを言うか言わないかは、その担当者によるんじゃないかなって思います。前の人はそこまでうるさくなかったから。そんなこと言われるのは辛いけど、そんなんで傷ついてたらやってらんないし、勝手に言っとけって思うようにしてます。そんなことで傷ついてたら何もできないし楽しめないので」(Bさん)
「役所の人にひどいこと言われた覚えはないかなあ。でも、時々嫌な思いっていうか恥ずかしくなる時はある。それこそ、ついさっきも銀行で通帳の再発行をしようとしたら、保険証などの身分証が必要って言われたんだけど、生活保護受けてる人って保険証ないから、『持ってないです』って言ったら『え?』って顔されて、『親御さんも持ってないですか?』って言われて。『うち生活保護受けてるんで、誰も保険証持ってないんですよ』って言ったら、『ああ、生活保護ね(笑)』って。ちょっとなんか、馬鹿にはしてないんだろうけど、笑いながら言われるのにむかついたりとかはあるよ。
あと最近、バイトの面接の時にあんまり稼いでもどうせ役所に取られちゃうから(生活保護受給世帯の高校生のアルバイト収入については本連載第9回をお読みください)、週2とかで希望すると『何で?』って聞かれるから、生活保護のことを説明すると、やっぱりちょっと小馬鹿にされてるような言い方で『ああ、生活保護ですか~(笑)』って。本人はそのつもりはないんだろうけど、私がそう感じてイライラすることは多々あるよ!」(Cさん)
彼女たちは、差別や暴力がある中で、どう生きていくかを現実的に考えている。「制度や大人は変わらない」という諦めが前提にあり、そうやって期待しない、気にしないように、わからないふりをすることで身を守っている人もいる。
「そんなのよくあることだから、いちいちまともに受け止めて、そのたびに傷ついていたら生きていけないよ」という高校生の言葉が、そうせざるを得ない状況の深刻さを伝えてくれている。社会に植え付けられた偏見が利用者自身の中にもあり、恥だと感じたり、たとえそうではなくとも「馬鹿にされているのではないか」という気持ちにさせている。
社会保障制度は、支え合いのための仕組みである。私は自分の払った税金が、今困っている人、そして、いつか自分が困った時に生存権を保障するために使われていることは大切なことだと思う。私たちはもっと、生活保護という制度を大切に考えていいのではないかと思う。
「恩恵」ではなく生存のための「権利」
日本弁護士連合会(日弁連)の資料によると、「生活保護は、さまざまな事情で生活に困った人に対し、憲法の生存権保障の理念に基づき、国が生活を保障する制度」で、「生活するために最低限必要な費用より、世帯の収入が低ければ、その差額が支給される」とある(http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/seikatuhogo_qa.pdf)。
生活保護は、施しではなく、生存権を保障するための制度であり、誰にでも与えられた権利である。この制度があることで、今必要としている人だけでなく、私や、他の誰にも、この先病気や事故や障害やその他の理由などで生活に困った時に最低限の生活ができることが保障されている。