小島 仁藤さんに初めてお会いしたのは2015年、雑誌『AERA』(朝日新聞出版)の連載「小島慶子の幸複論」に登場していただいた時でした。
仁藤 テレビで見る小島さんはいつも的確にズバッと意見を言ってくれる、尊敬する先輩女性像です。そんな小島さんも、お母様との関係でずっと苦しんできたことを知って、励まされました。それで私の『難民高校生』が文庫化(2016年、ちくま文庫)される時に、これを手に取ってくれる人たちが小島さんの人生やその姿にも触れられたらいいなと思って、解説をお願いしたんです。高校生たちが読んでも「うざい」と思わないような(笑)、大人の上から目線でない解説を書いていただけて、とてもうれしかったです。ありがとうございました。
小島 私も高校生の頃、毎日「家に帰りたくない」と思っていましたから。街でさんざんウロウロと寄り道して、でも他にどこにも帰る場所なんかない、その行き場のなさというのは身に覚えがあって。何か一つ出会いが違っていたら、私も『難民高校生』に登場する女の子たちと同じような道をたどっていたかもしれない。他人事とは思えないんです。
仁藤 この間、少年院で授業をしたんです。母親との関係で悩んでいる子もたくさんいて、親が憎い、殺したくなった、でもたまにお弁当を作ってくれて感謝する、でも素直になれない――そういう気持ちをどうしたらいいのか、と数人から質問されたんです。私は「それぞれ、親とのいい距離感を見つけられると楽になると思う」という話をしました。実際、私もそうだったから。小島さんはお母様との関係性に、どうやって自分の中で折り合いをつけられるようになったんですか?
小島 それはすごく模索しましたよ。病気にもなりました。摂食障害で過食嘔吐になって、頭の中では何度も残虐な方法で親を殺しました。そんな自分を罪深く思って、自分は恩知らずのひどい子どもだ、自分なんか死ねばいいとも思いました。この大嫌いな自分を他人が愛してくれたら、こんな自分と同居できるかもと思って、アナウンサーになってみました。でもやっぱりダメでした。たとえば家に帰ると、その日の放送を見た母から、ものすごい長文でダメ出しのFAXが届いているんです。当時の感熱ロール紙が、一反木綿みたいにビロビローッと。
あまりにもしんどくて、初めて臨床心理士の先生に「苦しいです。辛いです」と相談したんです。その時、先生が「慶子さん、あなた、苦しんでいいのよ」と。その一言に救われました。それまでの私は、家族を苦しいと思う自分は鬼のような人間だ、苦しむことは罪だと思っていたので、「えっ! 苦しんでいいんだ」と。それが私にとって大きな第一歩でしたね。自分で見つけたわけではなくて、やっぱり誰かの言葉が必要だったんです。だから仁藤さんのような方が、「逃げ場所はあるよ」「仲間がいるよ」と言ってくれることが、苦しんでいる女の子たちにとってどれほど救いになるか、切実に感じます。
仁藤 今は、お母様とやりとりもされているんですか?
小島 ずいぶん関係は良くなりました。メールなどでやりとりしていますけど、会うことはありません。やっぱり会うのは怖い。会うと踏み込まれて、お互い不幸になってしまう。会わなければ、いい思い出話を共有できる関係でいられますから。それが今の、私と母との距離感です。家族だからいつも一緒にいて仲良くしなきゃいけない、ということはない。親子なんだからわかり合えるはず、愛し合えるはずというのは思い込みです。家族だってみんなバラバラの違う人間だし、合わない人もいる。そこは認めていいと思います。
仁藤 学校で、よく「家族とは」というテーマの作文が宿題に出されるんです。でも家族関係で苦しんでいる子や、家庭内で性的虐待を受けている子は、そんなことを作文にして発表なんかできない。そのたびにまた苦しんで、結局、提出できなくて単位が取れなかったり、学校に行くのが嫌になったり。そんな子もいるのに、今、小学校では2分の1成人式とかやってますよね。
小島 あぁ~、あれはひどい。うちの息子も日本にいた時やらされましたよ。「お母さん、産んでくれてありがとう」とか、読み上げられたらどうしようと思ってたら、「僕は○○くんと遊んでいる時は楽しいです」みたいな作文でホッとしましたけど(笑)。
仁藤 親に感謝させるためのプログラムのような感じですよね。教育で大人がそういうことを押しつけてくるのは苦しいって、私もずっと思ってました。
小島 「家族とは?」って、正解のない問いですよね。説明しきれる人なんていないと思う。親の介護で初めて目覚める大人だっていると思うし。繰り返しそう問われるのは、実はみんな不安だから、「親は子どもを愛してるよね。子どもは親に感謝してるよね」と確認し合わずにはいられないんだと思います。
仁藤 この間、「家で料理を作ってレシピを書いて写真を撮って、家族に食べさせてコメントをもらう」という宿題もありました。母親の彼氏の家に住んでいて、キッチンやトイレを使うだけで怒鳴られてる子もいるし、親が帰っても来ない家や、ゴミ屋敷みたいな状態の子もたくさんいるのに。ある女の子が「こんな宿題出て、マジやだ」と言ってたら、私たちが運営しているColabo(コラボ)に料理を教えに来てくれている地域の女性が「うちにおいでよ」と言ってくれて。その子は友だちと一緒に魚のおろし方を教えてもらったりして、そのレポートが学校ですごくほめられたそうです。
小島 それは良かった!
仁藤 「自分の思う家族とは、生きるチームで、Colaboで一緒にご飯食べたりしていることが家族だ」って書いて提出した子もいるんですよ。
小島 私も「家族はチームだよ」と、子どもたちに言っています。そのチームの中にアンフェアな人がいたら、チームの外に助けを求める手もある。距離が近いと傷つけ合ってしまうなら、離れるという解決策もあります。どんな関わり方が最も平和的なのか、こっちがダメならあっちを試してみて模索する。そうやって学んだことは、家庭の外へ出ていった時にも、誰かと関係を築いたり共存して行く知恵になると思います。
人間って本当に多面的な生き物ですから、100%理解し合えることなんてないでしょう。ずいぶん長く付き合っていた友人でも「え、あなたドナルド・トランプ候補(現アメリカ大統領)の支持者だったの?」みたいなこともありますから。だからといって「私はトランプを支持できない」と友達をやめるのではなくて、「あなたはなぜそう考えるの? あなたと私にはこんな違いがあったんだね。でもここは同じだよね」って、実はこれ、すごく豊かな経験になるんですよね。100%同じ考えではなくても、あなたを理解したいというメッセージを伝えることで、「つながる」ことはできる。「私たちはみんな同じですよね」と言い合っている限り、違いを乗り越える知恵はいっこうに生まれてきません。「違う」ということを前提にして初めて、じゃあ、どう橋をかけていくか考えましょう、という話になる。本当は、家族というのはそれを学び始める最初のユニットだと思うんです。
こういう考え方って、実は子どもたちだけでなく大人たちに居場所を作るためにも必要です。だって、すでに結婚や家族の形も、働き方も多様化してますし、超高齢社会で、今までのイメージとは違う老後を私たちは生きていかなくてはならない。これが典型的な幸せの形、これが正解の生き方、なんてものは設定できないし、設定したところで誰も幸せになれませんよね。
仁藤 もう一つ聞きたいことがあるんです。
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