貧困を背負って生きる子どもたちに寄り添う(1)からの続き。
子どもの気持ちを尊重しながら支援
イベントでは幸重忠孝さんと対談も行った。幸重さんは、スクールソーシャルワーカーという枠組みがまだなかったころからスクールカウンセラーとして中学校に入り、活動されてきている。私もそういった専門家が学校に配置されることは、子どもがSOSを出しやすくなったり、気づいた教員が相談しやすくなり、学校を中心として、学校だけでなくさまざまな大人が知恵を出し合って、いろいろな制度を活用し、地域で子どもを支えるために必要なことだと思っている。
しかし活動で出会う中高生の中には、「カウンセラーに話したことが担任に伝わって嫌な目にあった」などと、相談したのに裏切られたと感じている人も少なくない。一方で、「担任の先生を通さないと、何かしたくても動けない」という大人側の話を聞いたこともある。
幸重さんも「スクールソーシャルワーカーはただ話を聞くだけではなく、相談の内容についてどうしたらいいか、ということも考えなければなりません。なので『相談で聞いたことは一切誰にも言いません』ということでは子どもの環境は変わらない、というジレンマを感じながら仕事をしています」という。
私も話を聞く中で「これは言わないでおいてほしい」とか、「親や関係機関に言われたくない」という話があった時、彼女たちに嘘をつかないことを大切にしている。必要な時には「私だけでは解決できないことも多いから、こういう人に協力してもらうために相談したいから、こういう話をしていい?」「こういう相談があったと話してみてもいい?」などと確認している。
そこをすっとばして、勝手に大人で何とかしなきゃ! と動いてしまうと、「なんなの。私の気持ち何も聞いてくれてないじゃん」と思わせてしまうこともある。相談者にも意思があるし、裏切られたと思ってほしくないので、必要性を説明して理解してもらうことに時間をかけたいと思っている。
そのルールはなぜ必要か?
例えば、子どもの保護施設ではスマホ禁止の場合が多い。私が関わる中高生に「スマホは使用禁止」と言えば、嫌がる人がほとんどだと思う。でも、ただのわがままではないので、ルールが厳しくてもその必要性が理解でき、それによって自分の安全や周囲の安全も守れるということがわかれば受け入れられることも多い。
しかし、大人が関係性づくりや丁寧な説明を面倒くさがって、「ルール」として押しつけてしまうと反発が生まれる。そのため対話を通して相手の気持ちを察したり、自分たちのことをわかってもらおうとすることを心がけている。子どもたちをルールでがんじがらめにしないと管理できないのでは……というジレンマを感じながら仕事をしていた時期もあるという幸重さんも、こんな経験をしたという。
「中学時代、男子は坊主刈り、女子はおかっぱと髪型が決まっていました。その当時は坊主刈りが嫌だったし、おかしいと思ったからそのことについて物言いをすると、先生たちは『校則だから守りなさい』『社会のルールを守ることが必要なんだ』と言う。髪型で誰かに迷惑をかけることはないと思うのに、そこには説得力のない大人の姿があった。施設などのルールも同じで、この持ち物はダメとか、連絡を取り合うことは禁止とか、それぞれに意味があるけど、子どもが納得する形で丁寧に話していくことが大切だと思います。子どもたちが言っていることは、まっとうなことが多いと感じます」
Colaboでのルールについて
幸重さんから「Colaboにはルールはありますか?」と聞かれて、私は少し考えてしまった。ぱっと浮かんだのは「タバコとお酒は敷地の外で」ぐらいだったが、他にも「男性の連れ込みは禁止」「シェルターの場所を秘密にする」なども守ってもらいたいと思っている。といって、「ルールだからそのようにして」と話したり、張り紙をしたことはない。「性虐待や暴力から逃げて来ている人がいるから、シェルターの場所やどんな子がいるのかを外で言いふらしたり、SNSに書いたりしないように」というようなことを、最初に説明するだけだ。するとルールとしてスタッフが口うるさく言わなくても、お互いを守るため、大事にするために中高生たちは自然とそういったことをわきまえてくれている。
ある時、高校生が「散歩に行ってくる」と出て行こうとした時に、中学生が「私もついていく」と言ったことがあった。その時、高校生はタバコを吸いに行こうとしていたらしく、中学生が一緒に行きたいと言うのを困った様子で断ろうとしていた。「お互いに悪いほうへは引っ張ろうとしないでほしい」という、私の思いを感じてくれているのかなと思った。
態度が悪いとか、寝転んでポテチを食べちゃダメとか、手伝わないとダメとか、そういうことで私が怒ることは基本的にはないが、「死ね」「殺すぞ」など、相手を傷つけるような言葉や、相手を支配するような態度、暴力があれば「それはよくない」と説明し、自分と向き合う時間をつくったり、対等な関係性や相手を尊重することを一緒に考えたりしている。
男性の出入りも基本は禁止だが、例外もある。彼女の相談に付き添って来た時や、女子中高生が「男友だちが虐待されているから助けてあげて」と、その男子を連れて来た時に招き入れて話を聞いたこともあるし、イベントを手伝ってくれた時に一緒にご飯を食べたりしたこともある。男子に宿泊支援や保護が必要な場合は、Colaboのシェルターには泊められないが、私の自宅に泊めるなど、そこにいるメンバーと状況と関係性によって臨機応変に対応している。
援助と自立のあり方を考える
幸重さんは「学校の先生が助けてくれなかった」「気づいてくれなかった」という子どもたちの声を聞いてきているが、メディアは不祥事があるとすぐニュースにする反面、夜中まで一生懸命子どもと向き合っている教員がいることや、子どものSOSに気づいて悩みながら奮闘している施設の職員がいることは、なかなか伝えないと話す。
「今は、そうしたスタンドプレーは基本的にはダメということになっていますが、子どものために家に行ってご飯を作ったり、修学旅行の費用を親に出してもらえない生徒がいた時にこっそり立て替えたりしている先生もいます。しかしそれは、公務員や施設職員の立場としては公にはできない」
貧困の子どもがいること、そういう現実があることも伝えていかなければ理解は広がらないが、声にすることで無理解な誹謗中傷やバッシングもある。幸重さんは、地域の子どもたちが朝ご飯を食べられる「子ども食堂」を始めた時、高校生とご飯を食べる様子がメディアで取り上げられると「女子高校生に食事の援助をするエロ理事長」とネットに書かれたことがあるそうだ。
前回のこの連載でも書いたが、児童買春を「援助交際」という言葉で大人から子どもへの援助であるかのように語ったり、お金を介することで子どもへの性暴力を正当化し、そこに対等な関係であるかのように語る風潮があることは異常だと思う。が、困っている子どもに衣食住や関係性を提供するのは、「手を差し伸べようとする大人ではなく、体目当てとか、そういう大人しかいない」という声を私もたくさん聞いてきた。しかしそれは援助ではなく、搾取のための手段であり、援助とエロ(というか性搾取)、援助と暴力、援助と支配は同時には成り立たない。
中高生に食事を提供することに対して、私も「子どもにただ飯を食わせたら自立を妨げるのでは」と言われたことがあるが、私は、自立とは自分で何でもできるようになることではない、と考えている。自立に向けて歩むためには、安心・安全や、お腹いっぱい食べることは必要不可欠だし、それを家庭だけに背負わせずに、難しい時には他の人がやればいいと思う。
そうやって地域に支えられて育った人は、将来、自分の家庭以外の子どものことも気にかけられるような大人になるかもしれない。そういったいい循環が、また次の世代を支える。孤立するのではなく、いろいろな人を頼って、関係性の中で生きられるようになることで、自立は芽生えるのだと思う。
大人である幸重さんや私も、いろいろな人の力を借りながら活動し、生きている。幸重さんは「自分も他人に頼って……というか、迷惑をかけて生きている。子どもたちにもスタッフにも迷惑かけている」という。この日のイベントにも、幸重さんが関わった青年たちが手伝いに来ていた。2年前は、「手伝いに来た」といっても本当にただ来ただけだったのが、昨年は会場の準備などを手伝ってくれ、今回はもっと踏み込んで手伝ってくれたそうだ。
青年たちの年齢から考えたら、「もっとチャキチャキ手伝ってよ」と思う人もいるかもしれないけれど、1年間の成長や小さな変化が嬉しいと話していた。