女性専用車両の設置は男性差別か(1)からの続き。
男性の方が生きづらい時代?
私が代表をつとめる女子高生サポートセンターColabo(コラボ)では、「少女が搾取や暴力に行き着かなくてよい社会へ」を合言葉に、虐待や性暴力被害に遭うなどした女子中高生を支える活動をしている。しかし、そうした問題に立ち向かおうとすると、その考え方や活動は「男性への中傷であり暴力であり差別である」と批判したがる人がいる。
以前、講師として赴いた高校で人権についての授業をした時、女子生徒から「今は女尊男卑の時代。女性ばかりが女性専用車両や映画のレディースデーなどで優遇されている」という意見を堂々と突きつけられた。
また、私が女性への性差別表現をするアニメや、若い女性に男性が理想とする衣装を着せて奉仕させることをエンターテインメントとして消費する社会を批判したのに対して、男子中学生から「女性が強くなり、男性の方が生きづらい時代。アニメやメイドカフェなど自分の趣味を否定しないでほしい」というコメントをもらったりしたこともある。
そして彼女/彼らは、ある種の正義感をもって、粗探しをするかのように本質的ではない質問を繰り返したり、話をすり替えたりする。
例えば「性暴力に遭うのは女子だけではないが、なぜ男子への支援はしないのか?」と聞かれて、「女子の方が圧倒的に被害に遭いやすく、性的に搾取されやすい状況の中で女子をメインの対象としているが、男子の被害者にも出会えば支援をしている」と答える。と、次に「Colaboの支援を受けて大学に行けた子は何人いたのか?」「Colaboに関わった子たちはいくらの年収を得ているのか?」「貧困の連鎖から抜けられたのか?」とたたみかけ、「そうでなければその活動に意味はない」などと言ってくる。
そして、こうした主張や攻撃をする人の中には年齢にかかわらず、「自分はそういう人に出会ったことはないし関わりたくもないが、好きで売春をしている女子高生もいるはずだ。そういう人がいることで自分は性暴力から守られている」とか「モテない男性は性的弱者なのだ。彼らの性欲を否定することは人権侵害である」などと、性欲の否定などこちらが言ってもいないことを言ったかのように主張する。
「貧困の女子高生に売春する自由を与え、欲求を満たしたい男性とつなげば、当人同士の合意に基づくウィンウィンの関係になる」などと考えたりする人もいる。
買春者や女性差別をする人が身近にいることに気づかず、そういうことをするのは一部の変態や、複雑な事情を抱えた人だけだと思い込んでいる人もいる。
「平等」「中立」「多様性」のはき違え
「買春ってどんな人がするのですか?」と聞かれることがよくあるが、買春は特別な一部の人によるものではない。ごくごく普通の家庭生活を送っている、会社員、医師、警察官、弁護士、大学教授、フリーター、学生など、あらゆる立場や年齢の人が加害者になっている。自分も、自分の身近な人も、被害者にも加害者にもなる可能性があることなのに、自分とは切り離した問題として考えている人が多い。
「買春した人の気持ちや事情が知りたい」と言う人も少なくない。児童買春の実態を伝える企画展「私たちは『買われた』展」(Tsubomi/一般社団法人Colabo主催)を開催した時も、「被害児童の声だけでなく、加害者の背景も調べて伝えるべきだ。そうでないと善悪の判断ができない」と私たちに言ってくる人たちがいた。
加害者にも人権はあるが、どんな事情があるかにかかわらず暴力は許されない。そんな当たり前の前提をも共有することは容易ではないと、日々の活動を通して感じている。
被害者への寄り添いなしに「加害者にも事情がある」と言う人は、加害者も被害者も自分の近くにいるかもしれないことを想定せず、自分が加害行為をしている可能性については考えていない。このような発言自体が差別や暴力への加担につながることにも無自覚で、「自分の周りには、児童買春被害に遭った子はいない。そういうのは、定時制高校に通うような事情のある子たちだけでしょう」などと言う人もいる。
私は「どんな高校に通う人にも被害に遭う可能性はある。きっとあなたの身近にもいたけれど、見えていなかったというだけではないか。そんな考えをしているあなたには、被害を相談したいと思われなかったということではないか」と思う。
差別や暴力を振るう側の意見を、被害者の意見と同じ大きさで扱うことを「中立」だと思い込んでいる人も少なくない。そして、中立を装う人の多くは、差別や暴力を目の当たりにしても何もしない。自分とは関係のないこと、自分には判断のできないこととして、やり過ごそうとする。それは差別や暴力に加担することにつながる。
差別主義者の差別的な発言をそのまま取り上げるのは、差別を助長することになりうるが、それを「差別に加担すること」とは認識できず、中立と考えるメディア関係者もいる。
差別をする人は往々にして「自分たちのような人間を否定することは差別だ」「これは表現の自由だ」などと主張するが、これは「いろんな意見の人がいるよね」「多様性って大事だよね」という話ではない。平等とは「誰かを差別したり、誰かに暴力を振るったりする権利を確保すること」ではなく、「誰にも差別や暴力を受けず、安心して安全に生活する権利がある状態」ではないか。
しかし今日、差別や暴力を振るうことを権利として主張する声は大きくなっている。
#WeToo「私たちは暴力を許さない」
虐待やDVを受けるなどして人権が侵害され、支配の関係性の中で暴力を振るわれ続けるような環境で長い間過ごすと、自分の身に降りかかっていることが「暴力だ」「支配だ」「危険だ」と認識できなくなったり、「怖い」と思うこともできなくなったりすることがある。それと同じように今の社会を男女平等だと信じて疑わない人の中には、今ある状況が当たり前になりすぎて、その中にある差別や暴力を認められない人もいると感じる。
また、差別や暴力に向き合う時、自分の加害者性にも向き合わざるをえなくなる。女性専用車両について「男性の人権軽視である」と主張したり、「すべての男性を性犯罪者扱いしている」と、ずれた解釈をしたりする男性たちは、自分の加害者性を否定したいのではないか。もしかしたら彼らは自分を一番の被害者だと思っているから、実際にはさらに弱い立場にある人がたくさんいる「女性専用車両」でも堂々と行動できている、といったことにも無自覚なのかもしれない。
しかし女性を保護するためのスペースに侵入し、女性の安全を脅かすことは明らかな暴力である以上、彼らは間違いなく加害者になっている。
満員電車で「性犯罪の被害に遭うかもしれない」と女性が不安を感じる状況で、「俺は違う。そんなことはしない」と思うのなら、「性犯罪者扱いされた」と被害者ぶって女性専用車両で嫌がらせをするのではなく、性暴力を許さない社会づくりのために行動するべきだ。そうすれば女性専用車両のいらない社会の実現にもつながるし、それは多くの女性たちも望んでいることだ。
「差別ネットワーク」では、世の中の男性たちに「一緒に活動しましょう!」と活動への参加を呼びかけて、仲間を増やしている。こういう人たちに「NO!」と言える男性が増えてほしい。私は中高生時代に「男なんてどうせそんなもの」と思った時期もあったが、活動する中で性暴力に反対する男性たちと出会い、Colaboにはたくさんの男性サポーターもいて活動を支えてくれている。
そういう出会いを通して私も男性への信頼を回復していったが、今でも性的な目にさらされ、セクハラなどの被害に遭うことはあるし、「やっぱり男性は信用できない」という気持ちになることもある。そんな時も、「暴力や差別に反対」と言う人々の存在に励まされてきた。過去の自分に、暴力や差別に加担してしまった心当たりがあったとしても、これから変わればいい。「もう終わりにしよう」と言っていけばいい。
先日、自らの性暴力被害を公表して訴えたフリージャーナリストの伊藤詩織さんらが呼びかけ人の一人になって立ち上がった「#WeToo Japan」には、私も賛同した。被害当事者としての「#MeToo」だけでなく、「私たちは性暴力を許しません」という当たり前のことを言葉や態度、行動で示していきたい。「#WeToo」なら、男性や、自分は暴力や差別の被害や加害の当事者でないと思っていた人も誰もが当事者となり、参加しやすいのではないかと思う。
「被害者が声を上げなくても、差別や暴力はダメだよね」と、当たり前に言える社会にしていきたい。