こうした状況は、国内大会を破竹の勢いで制覇し、次々と新記録を打ち立てていったジェシーにも襲い掛かります。すなわち、参加を辞退して黒人差別に反対の意思を表明すべきだと、全米黒人地位向上協会(NAACP)から要請を受けることになります。監督スナイダーは、こうした政治に反対します。「歴史に名を残すチャンスを捨てるのか?」。ジェシーはこう反論します。「人は俺を手本にする」。「人って誰だ? 黒人のことか? そんな問題はどうでもいい!」と言い返す監督には、それは「(お前が)白人だからだ!」と啖呵を切ります。
日本でも障がい者やマイノリティをメディアが取り上げることで「感動ポルノ」を生んでいるという批判がありますが、こうしたジレンマはあらゆる差別に付き物です。差別される側は、差別する側が用意した舞台にあがり、その視線に晒されなければ、差別の存在を社会に示すのは難しい。しかし、舞台にあがったところで差別の構造そのものがなくなるわけではないため、結果的に差別を温存する構造に加担する、というジレンマです。
AOCとともに、ジェシーは最終的にベルリン・オリンピックへの参加を決めます。ここで彼が背負ったのは、黒人として活躍すること、さらにアメリカの国旗をひとつでも多く掲げるという二重のプレッシャーでした。 フェアプレー精神を発揮してジェシーと交友を温めたドイツ人選手は、ナチス政権を批判して、彼にいいます。「きみはアメリカに住めて幸せだ」。これにジェシーは「どうかな、突き詰めれば違いはない」と返します。
オリンピック憲章では選手が政治的言動をするのを禁じていました。ところが、今回のオリパラではこのルールが緩和され、多くの選手が公の場で差別反対のジェスチャーや言動をしました。これは、国と国との間のナショナリズムによる政治ではなく、もっと個人的な次元での政治こそが欠かせないものになったことの証左でしょう。そうした時代の趨勢を、ベルリン・オリンピックに見出したのがこの映画でもあります。
ちなみに日本でも『栄光のランナー』と類似する話があります。ベルリン・オリンピックには計7名の朝鮮半島出身者が参加していましたが、このうち孫基禎という選手はマラソンで金メダルを、南昇龍は銅メダルを射止めました。特に孫選手は、優勝して宗主国の旗である日章旗が揚げられたり、日の丸のついたユニフォームを着ることに強い抵抗感を覚えたと回顧しています。日本の統治下のなか、自らの民族の代表の活躍を知った朝鮮半島の人々は大きな喜びに包まれたといいます。ジェシーを応援していたアメリカの黒人も同じ感動を味わったでしょう。
抗議の場としてのオリンピック――『君の涙 ドナウに流れ』
オリンピックは、記録という絶対的に平等な基準で、あらゆる属性の人々が競い合う祭典でもあります。それゆえに、その国が持つ脆弱さや矛盾を白日のもとに晒す作用をも持つことになります。
つまり、オリンピックは、ナショナリズムを鼓舞するためだけに利用されるわけではありません。自分たちが受けている抑圧や差別、理不尽さを世界中の人に知ってもらうための場でもあります。
次に紹介するのは、1956年のメルボルン・オリンピックに参加した水球チームの選手たちを主人公に据えた『君の涙ドナウに流れ』(クリスティナ・ゴダ監督、2006年)です。
作品の背景は、先の連載でも触れた、ハンガリーの民主化運動に対しソ連が侵略した1956年のハンガリー動乱です。映画ではこの史実が、動乱直前のハンガリー対ソ連の試合を描くことで最初に示唆されます。アウェーで行われたこの試合をハンガリーは優位に進めながらも、相次ぐファウルや不公平な審判の判定によって敗北します。ハンガリー代表団のエース選手カルチは、帰国直後に連行され、大臣からこう告げられます。「どんな理由があろうと、金輪際ソ連の同志に刃向かってはならん」。
カルチは、「この国で認められるのは沈黙だけだ。デモで変わるのか?」と嘯きつつも、民主化闘争を指導する女子学生のヴィキに一目ぼれし、彼女の心を射止めようとして渋々ながら運動に参加します。カルチの魅力に抗しきれなかったヴィキは、それでも彼がオリンピック代表という務めを果たせるように、身を引く決断をします。
ヴィキの想いを知ったカルチも、戸惑いつつオリンピック出場を決意します。彼の背中を押したのは民主化闘争の中で命を失った友人や、民主主義のために犠牲となることを厭わなかったヴィキの後ろ姿、すなわち、オリンピックという世界が注目する舞台で、ハンガリーが健在であるということを示すことにありました。水球チームの監督は彼らをこう鼓舞します。「祖国は打ちのめされた、だからこそ見せてやるんだ、ハンガリーはまだ終わってないと」。
オリンピックの準決勝戦もまたハンガリーとソ連の対決となりましたが、相次ぐファウルによる怪我人が出たため「メルボルンの流血戦」として実際に世界中に報道されることになりました。「敵も7人、味方も7人」――軍事力では打ち負かされたものの、スポーツの世界では実力こそが勝負を決めることになります。
映画でも描かれているように、ソ連の侵略を受けて、ハンガリー選手団100名中の約半数がそのまま亡命しています。今回のオリパラでも、政権から敵視されたベラルーシ選手がそのままポーランドへと亡命したケースがありました。
オリンピックは国際的な大会であることから、常に時々の世界情勢の影響を受けてきました。この1956年のメルボルン大会は、台湾の出場が認められたことに抗議して中国がボイコットをした大会でした。また、よく知られているように1980年のモスクワ・オリンピックは60カ国近くがソ連のアフガニスタン侵攻を理由に不参加を決め、次の84年のロサンゼルス・オリンピックは、今度は東側諸国がアメリカのグレナダ侵攻を理由にボイコットを決めました。オリンピックはここでも政治とは無縁ではいられません。
テロとオリンピック――『ミュンヘン』