大会で全てを暴露しようとするウィラビーを阻止するため、新聞社は号外をばら撒き、彼が最初から嘘をついていたこと、偽のジョン・ドゥであることを聴衆に知らせます。聴衆の怒りを買った彼は、命からがらスタジアムから逃げ出すことになります。時として真実は、人々の怒りを呼び覚まします。
再び無名の人間となったウィラビーが取りうる選択は、ジョン・ドゥを自分の手で再び本物にすること、つまりクリスマス・イヴに飛び降り自殺をすることです。果たして彼は、自らが見出した理念を実現するため、どのような行動を取るのか――。
この『群衆』のテーマを異なる視角から現代に再提示したのが、ヒット作『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督、2019年)でしょう。やはり孤独と疎外を抱えた主人公が、同じ想いを抱える無名の民を自身の力としながら、変身していくというこの映画も、現代のポピュリズム政治を象徴するものとして捉えられました。
ヨーロッパや日本と違って、アメリカでは「ポピュリズム」や「ポピュリスト」という言葉がむしろポジティブな意味で使われることが多いということにも注意しなければなりません。アメリカではこれらは「庶民的」「庶民の味方」というニュアンスを帯びているためです。政治学者リプセットは、「自由」「平等」「個人主義」「自由放任」、さらに「ポピュリズム」こそが、アメリカ政治で繰り返し表れる信条体系だと指摘しています(※2)。ここでいうポピュリズムとは、字義通り「庶民主義」とでもいうべきものです。富豪の持つカネ、インテリの持つ知識、政治家の持つ権力(そして大メディアはこの全ての象徴でもあります)、このいずれも持たない庶民こそが、本来は民主主義の主人公であるべきだ、との考えです。
ポピュリストとされる人間は、自らをポピュリストと名乗るわけではありません。それは、ポピュリズム政治を脅威に覚える、これらのエリートたちによって名指しされる対象なのです。
確かに、トランプ大統領やブラジルのボルソナロ大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領など、最近のポピュリスト政治家とされる人たちの言動は到底首肯できるものではありません。しかし、そうした彼らの言動の源泉となっているのは、民主主義では正当に扱われて然るべき庶民が無視されている、という人々の強い怒りです。その怒りを理解できない限り、私たちは常にポピュリストの逆襲にあうでしょう。
承認を与えよ――『ネブラスカ』
J.D.ヴァンスの自伝的小説『ヒルビリー・エレジー』は、トランプ時代のアメリカを代弁する作品として各国語に翻訳され、2020年にはネットフリックス作品として配信・配給されました。「ヒルビリー」の原義は「山間に住む人々」、アメリカでは「馬鹿で世間知らずの田舎者」のようなニュアンスで使われますが、小説と映画ではこれらヒルビリーの実際には厳しくも温かい、相互扶助の精神と生活が描かれていました。
こうした世界を別様に描くのが、数々の映画賞にノミネートされた『ネブラスカ』(アレクサンダー・ペイン監督、2013年)です。全編白黒のこの作品の主軸を成すのは年金生活を送る頑固者ウディと、その次男の心優しいデイビッドという親子です。ある日、ウディは「抽選で100万ドルが当たった」という、雑誌社からの証書を受け取ります。最近ではスパムメールでも同じようなものがありますが、ウディはこれが本物だと信じて疑いません。彼は賞金を受け取ろうと、住んでいるモンタナ州から、雑誌社のある1500キロ先のネブラスカ州の街まで歩いていこうとします。100万ドルで何を買うのかと尋ねられたウディは「(ピックアップ)トラック」、さらに(塗装用の)「(エア)コンプレッサー)」とすかさず答えます。
見かねた次男は、しぶしぶ車で連れて行くことにしますが、道中、父親が生まれ育ち、親族が暮らすネブラスカ州(アメリカでもっとも田舎とされている州です)の街に立ち寄ることを提案します。親族は、ビールとスポーツ観戦と車の世界の住人たち、いうなれば娯楽もなければ、文化資本もない世界に住む人々です。リーマンショックの傷跡からか、ウディの甥たちも失業中です。
ただ、次男のデイビッドは、ウディが戦争中は街の英雄だったこと、昔は町工場の経営者だったこと(今ではヒスパニック系移民のものになっている)や、母親との馴れ初めなどを通じて、彼の過去の生活を知り、父への愛情を深めていくことになります。父親が貧しい農家に育ち、幼い頃に兄弟をなくし、その中で苦労を重ねながらも、家族を助けてきたこと、それゆえにアル中になったことなども明らかにされていきます。
ウディは、自分は億万長者になるのだと、それまで無視されていた街の旧友たちに吹聴して、再びかつての尊敬を集めます。「俺を見る目がガラッと変わったろ」――デイビッドへの自慢の言葉です。もっとも、彼の自慢話は良い結果をもたらさず、当選証書は甥たちに盗まれ、彼は意気消沈します。
ここまでの展開では、ポピュリズム政治を駆動させる2つの重要なことが示唆されています。ひとつは、ウディが兵役を務め正直に生きてきたにもかかわらず、苦労が報われないまま人生を送ってきたことです。「俺は国に仕えたし税金も払ってきた。何をしようと自由だ」――だから彼は、故郷で敢えて高飛車な態度を取り、過去の仲間と自分が育ってきた環境に復讐しようとするのです。いわば、ウディにとって100万ドルの賞金は、本当でも嘘でも構わないのです。それは、慎ましくも正直に生きてきた報酬として与えられたのだと、ウディは考えたのでしょう。
もうひとつは、製造業の世界から消費の世界への現代社会の変容です。ウディはもともと機械工として生計を立て、車とコンプレッサーにこだわる人間として描かれています。しかし、工場経営には失敗し、コンプレッサーは他人に盗まれてしまった。これらは彼の手からすり抜けていったのです。そのウディが晩年を迎えて、人生の起死回生のためにできたことが、広告による賞金(アメリカではありふれたマーケティングです)を狙うことだったのです。
ちなみに、ウディに冷たく当たる長男は地元テレビ局で立身出世中のキャスターという設定で、消費資本主義の象徴として位置づけることができます。次男デイビッドは、電器店の店長という設定ですが、家電は製造業と消費社会を橋渡しする財でもあるゆえ、文字通りウディの旧世界と新世界をつなぐ人物であることがわかります。
(※1)
Agnes Akkerman "How Populist Are the People? Measuring Populist Attitudes in Voters" Department of Sociology, VU University Amsterdam, the Netherlands を参照
(※2)
シーモア・M・リプセット『アメリカ例外論』(上坂昇・金重紘訳、明石書店、1999年)を参照