彼はいいます。「悪から善を生み出す。政治だろうと詩だろうと同じだ」――善きことを為すためには、悪事に手を染めなければならないという、この連載の「政治」の回で指摘した現象です。もっとも、では善をどのように見分けるのか、と問われたスタークは「そうなるように作り上げるんだ」とのたまいます。
こうして、お得意の買収や脅しを使って弾劾裁判をかろうじて切り抜けたスタークは、思いもしなかった人物から銃口を向けられ、映画はラストシーンを迎えます(モデルのヒューイ・ロングも上院議員在任中の1935年に暗殺されています)。
ピューリッツァー賞を受賞した原作もそうですが、映画もスタークを取り巻く人物たちによる複雑な愛憎劇が豊かなサイドストーリーを作り上げています。興味深いのは、登場人物がそれぞれ「3人の人間関係」から描かれていることです。
物語は、スタークの秘書となる新聞記者ジャックの視点から語られます。上流階級の出自で自分の人生をもてあましているジャックは、堂々と正義を振り回すスタークの姿に強く惹かれていきます。そのジャックは、元知事の娘で幼馴染みのアンに心を寄せていますが、彼女はスタークの愛人となり、三角関係が生まれます。また、スタークは、ジャックと「シュガーボーイ」と呼ばれる用心棒兼運転手との3人でいつも行動を共にしています。
さらに映画をよくみると、道路脇に3つの十字架が据えられているシーンが複数回、映し出されます。スタークを含め、銃で死ぬ者も3人、最初に紹介した児童の死亡者数も3人だったことも思い出しておきましょう。かくように3という数字がこの映画では象徴的に扱われています。
3という数字は、三位一体との関係に比すことができるかもしれません。キリスト教における三位一体は、父なる神・神の子キリスト・聖霊ですが、ポピュリズム政治にひきつけていえば、民主主義での三位一体、すなわち民とポピュリストと議会政治家を想起させます。
「民の声は神の声」というラテン語の諺がありますが、民主主義では、父なる神の役割を果たすのは民です(劇画的なスタークの演説でも度々そのように謳われます)。さらにこの比喩を続ければ、聖霊は神の存在を示唆する議会政治家でしょう。そして、ポピュリストであるスタークは、神が送り、殺される運命にあったキリストである、と解釈することができます。
キリストが復活したように、民主主義ではポピュリストは定期的に再臨します。ポピュリズムという言葉が定着したのは、19世紀末にアメリカ西部・南部でやはり農民から支持された「人民党(通称ポピュリスト党)」が登場した時でした。戦後には赤狩りで有名なマッカーシー議員やフランスの反租税運動のプジャード運動、イギリスで移民排斥を訴えたパウエル議員、そして90年代以降はイタリアのベルルスコーニ首相や日本の小泉首相などがポピュリストとして登場、さらに現代ではトランプ前大統領に至るまで、繰り返し現れています。
信条としてのポピュリズム――『群衆』
もっとも、ポピュリズム政治は、ポピュリスト政治家だけでは成り立ちません。それを支持する人々、すなわち現在の政治から疎外されていると感じる群衆がいて、初めて成り立ちます。このダイナミズムを描くのが『群衆』(フランク・キャプラ監督、1941年)です。同作品は、『オペラハット』(1936年)、『スミス都へ行く』(1939年)、『素晴らしき哉、人生!』(1946年)とあわせて、同監督の「ポピュリズム四連作」のひとつに数えられています。いずれも、名もなきアメリカ人が権力者に立ち向かって彼らの鼻を明かし、庶民の共感を集めるという物語であることで共通しています。
『群衆』の原題は「ジョン・ドゥを紹介しよう(Meet John Doe)」です。この「ジョン・ドゥ」は日本語でいえば「名無しの権兵衛」「身元不明人」という意味合いですが、これも一般庶民の物語であることが強く示唆されたタイトルです。
社会が疲弊していたこの時代、アメリカでは不安や騒乱が蔓延していました。新聞社で退職を迫られた女性記者アンは、上司への腹いせに、今でいうところのフェイクニュースを書きます。彼女がでっち上げたのは、自分たちのような恵まれない人間がいることを社会に知らしめるため、抗議の意味を込めてクリスマス・イヴに自殺をする、という新聞への投書でした。ジョン・ドゥという名前で書かれたこの記事は瞬く間に世間の注目を浴び、新聞も飛ぶように売れることになります。今風にいえば「炎上商法」でしょう。
不満を抱えていた人々は、ジョン・ドゥを応援するデモを行い、政治家たちは対応に追われることになります。困った立場に立たされたのが、この記事を掲載した新聞社です。偽の記事であることをいまさら世間に公表するわけにはいかず、そのためセレブなりたさから自分こそがジョン・ドゥだと名乗る人物の中から、失業中の元野球選手の中年男性ウィラビー(演じるのはゲーリー・クーパーです)を実際のジョンに仕立て上げることになります。
新聞社のお抱えとなったウィラビーは、ラジオ番組に出演し、各地で演説会を行って、新聞の売り上げに貢献することになります。「農業や鉱山や工場で汗を流す人々、パイロットやバスの運転手、警官にどなられる人、それがジョン・ドゥです」「人は団結したときに真の力を発揮するのです」「ドゥたちが集まり、力を発揮するときなのです」――彼の呼びかけに応じて、各地では「ジョン・ドゥ・クラブ」が自発的に生まれ、人々が声をあげるようになります。ウィラビーは、自分が偽者だと知りながら、世の中に自分の呼びかけが響き渡り、それが人々の行動に影響を与えるようになることに、手ごたえを感じるようになります。これも、目的が手段を正当化する、悪から善が生まれるという逆説です。
もっとも、彼は操り人形に過ぎません。彼の知名度と影響力を目の当たりにして、新聞社のオーナーと幹部たちは、ジョン・ドゥ・クラブの全国大会で、新党を結成し、その支持者を取り込んでオーナー自ら大統領選に立候補しようと企てます。それまで彼が頼りにしていたアンも、自分の出世のために彼を利用していたに過ぎないことが解り、ウィラビーは強い憤りを覚えます。
(※1)
Agnes Akkerman "How Populist Are the People? Measuring Populist Attitudes in Voters" Department of Sociology, VU University Amsterdam, the Netherlands を参照
(※2)
シーモア・M・リプセット『アメリカ例外論』(上坂昇・金重紘訳、明石書店、1999年)を参照