彼女が示唆するように、男性だったら、おそらく議員を続けていたのだろう。ちなみに「妻の介護」を理由に引退した男性議員の話を、私は耳にしたことがない。
そんなことを考えて、思った。「働き方改革」と言われるような問題のすべてのヒントが、この二人の引退や藤野さんの経験に隠されているのではないかと。老い、病み、死に、そして生まれ、育つ命の責任を持ったことがある人たちの経験に、だ。
しかし問題なのは、「働き方改革」だけでなく、政策立案に関わるほとんどの人が中高年男性で、家族が老いても病んでも、そして子どもが生まれても、そのほとんどを「女」たちに任せきりの人が多いということだ。
彼らの多くは、自分の妻や母や娘が、子育てや介護や看病でどんなことに困っているのか、困ってきたか、まったく知らないどころか関心もないかもしれない。何か言われたとしても、「女だから当たり前だろ」としか思わないかもしれない。そこに政策課題となる切実なニーズがあることに、本気で気付いていないかもしれない。それどころか、介護や子育てを、「男の仕事より一段低い女の仕事」と思っているかもしれない。
しかし、人間なのだから誰もが病み、老い、生まれ、死ぬ。自身だけでなく家族が病み、老いていくことは誰にも止められない。だからこそ、予測がつかないこれらの生の営みを中心に「働き方」を考えるべきではないのだろうか。それなのに、今の社会での「働く」は、自身も家族も100%健康で、絶対に病まずに老いずに子育てにも手がかからないという前提で設計されている。企業社会は朝から終電まで働ける人を望み、「家庭の事情」など持ち出そうものなら「戦力外」の扱いだ。逆に「子どもが病気で入院しても仕事が忙しくてお見舞いにも行かなかった」みたいな話が企業社会の中で「美談」として語られていたりする。そんなの、絶対におかしいのに。
猫が病気になって、ある意味で私は仕事に穴を開けた。結構たくさん、開けてしまった。多くの人に迷惑をかけた。だけど、それをあまり悪いと思っていない自分がいる。家族同然に14年間ともに暮らした愛猫があと1カ月の命と言われたのだ。生まれて初めて、私が責任をもって育てた命で、子どものような存在なのだ。大騒ぎして仕事相手にも事情を言って休みをもらう。それが許される社会で私は生きたい。
もちろん、そうできない人たちがたくさんいることも知っている。でも、「甘えてる」と言われても、私は甘えたい。そしてみんなにも、甘えてほしい。家族の病気が気になりつつも心を鬼にして仕事に行くしかない人たちにも、妻などにすべてを押し付けていることに罪悪感を抱いている人にも、「社会人失格」という言葉で割り切らなくてはいけないと思い込まされている人にも。そうしてみんなが順繰りに、生まれることや病むこと、老いることに向き合っていれば、「助け合い」はもっと当たり前のものになるはずだ。
とにかく、生きることに付随する多くを妻や母などの女性に任せきりにしている男性に、私は決して政治を担ってほしくない。そんな男性ばかりが作った制度はちっとも女性に、そして生活者に優しくないからだ。
仕事と家族の介護で疲れ果てながらもスーパーで明日の食材を買うような、そんな生活者にこそ、政治の世界に身を置いてほしい。
4月21日投開票の統一地方選挙で、藤野さんは見事当選を果たした。ぜひ、今回の経験を横須賀の市政に生かしてほしいと思う。今年の夏には、参院選がある。ここまで書いてきたようなことを基準に、一票を投じようと思っている。
次回は6月5日(水)の予定です。