しかし、なかなか子どもを授からない。お金を使い、身体に負担をかけているのにだ。そんなことを思うと、なんて皮肉なんだろうと思う。
そんな私たちは、上の世代から「なぜ子どもを産まないのか」と聞かれてきた。貧困や不安定雇用を理由にして納得されることもあれば、「それでも、あなたたちの親である団塊世代の方が貧しかった」と言われることもある。右肩上がりか右肩下がりかの違いはあるが、確かに親世代は貧しくても私たちを産んだ。
では、何が足枷になっているのだろう。そんなことを考えて思い出すのは、フリーターの頃に住んでいたアパートの狭い部屋だ。フリーター時代に付き合った何人かはやはり私と同じフリーターのようなもので、少し生理が遅れたりするたびに、漠然と思った。このまま妊娠して出産してフリーター同士でここで子育てとかしたら、お金がないことで喧嘩して子どもを虐待して逮捕されて、ワイドショーなんかでバッシングされまくるんだろうな、と。
実際、ニュースでは私たちと似たような若いカップルが赤ちゃんを死なせたりして逮捕されていた。そんなものを見るたびに、「とにかく妊娠だけはしないようにしなければ」と、崖っぷちのような気分で思った。自分なんかが妊娠や出産をしてしまったら、もう立ち直れないくらいに世間から罵倒されるのだと思っていた。
「お前らそんなに貧乏なのに、フリーターのくせに子どもなんか産んで動物かよ」とか言われるんだろうという確信。絶対に傷つけられて、怒られて責められる。もちろん、親にも激怒され、親戚も世間も呆れ果て、なじられるに決まってる。命の誕生さえ、絶対に、誰も祝ってくれないのだ。
妊娠などしていなくても、当時の私は、ただ生きてるだけで責められ、怒られすぎていた。フリーターとして、誰かがしなきゃいけない仕事を低賃金に耐えてやっているのに「いつまでそんな仕事してるんだ」となじられていた。そんなことばかりで、とにかくこれ以上怒られたら生きていけないと思っていた。
そんなふうに20代前半を過ごした。それほどに妊娠は禁忌だったのに、ある時期から、「第3次ベビーブーム」の担い手として、今度は妊娠・出産しないことをなじられるようになった。そうして今になって、首相は不妊治療に保険適用を、なんて言っている。
そんなもやもやを抱える私にとって、20代で90年代の東中野で共同保育をやってのけてた加納穂子さんの姿は、あまりにも、眩しい。「すかっとしたいから」という理由で坊主頭だった彼女の言葉は当時から惑いがないように思えて、だけどこの本で、私は初めて、当時の穂子さんが追い詰められていたことを知った。生後8カ月の子どもを抱いて、お金もなく、子の父親と別れ実家からも離れて生きていくと決めた彼女。ある保育人は、彼女の第一印象をこう述べている。
〈最初、土を抱いてきたときは、おれからみると穂子ちゃんは本当に疲れているようにみえたよ。このままだと土を死なせてしまうという危機感みたいなものがすごい伝わってきたな〉(『沈没家族 子育て、無限大。』)
当時の私に「大きく」見えた人は、何も持たない20代の女性だったのだ。
そうして始まった沈没家族は、集まった一人ひとりにとってかけがえのない場になっていく。ある人の書いた「保育ノート」にはこんな記述がある。
〈沈没ハウスに来る。意中の女性と保育デートができる。土を連れてその人と外へ公園行く。土が大きくなったら、俺をダシにしやがってと殴られないか不安だ〉
そんな大人もいれば、子どもは子どもでしたたかだ。沈没家族は土くん一人の共同保育を経て、シングルマザーとその子どもと大人の住人が住む一軒家の「沈没ハウス」になるのだが、大人と子どもが複数いる場は子どもにとってはカオスでもあり楽園でもある。なぜなら、親に怒られたとしても他の大人が慰め、甘やかしてくれるからだ。核家族ではあり得ない逃げ場が、沈没ハウスには無数にあった。
沈没家族は、大人たちにも様々な作用をもたらした。土くんの子育てに関わったことが唯一の子育て体験だった人もいれば、それがいい「練習」になったという人もいる。
〈沈没ハウスで、子育てするのめちゃ大変だなと知ることができた。(中略)でも同時に、子育てって手を抜いていいんだなということも知れた」と語り、今、子育てに奮闘する人もいる〉
土さんは、同書『沈没家族 子育て、無限大。』で以下のように書く。
〈経済的に厳しいシングルマザーの穂子さんと、その前で横たわる赤子を救ってくれたのは、まぎれもなくそこに来た人たちだった。義務でも契約でもない。来たいひとたちが来るという、ゆるゆるとしたつながり。オムツを替え、ごはんを食べさせてくれて、遊び相手になってくれた〉
〈一番長い時間をともにした穂子さんには、場を作ってくれてありがとうという想いがある。子どもは親がいちばん愛情を持って接しなくてはならないという規範があるとしたら、穂子さんはそこから外れているように見えるのかもしれない。でも、彼女は自分ひとりでは育てられないということを認めたうえで、ひとに助けを求めた。「できない」というところからスタートして、チラシをまいた結果、たくさんのひとが穂子さんに巻き込まれていった〉
助けて、と誰かが言っていたら、それを聞いた人は放っておけない。子どもがいたらなおさらだろう。沈没家族は、その当たり前が成立したギリギリ最後の時代の奇跡だったようにも思える。今だったら、子どもの保育に関わる人間は「安全かどうか」ばかりが問われ、「今日暇だから」子どもの世話をするようなやり方が受け入れられる余地はない。もちろん、安全は重要だが、90年代の東京には、長屋で子育てするような感覚が、おそらく遊びや実験の一つとして一部若者たちに共有されていた。
ちなみに穂子さんは現在、八丈島で「うれP家」という、お年寄りや障害者や猫やいろんな人や動物が集まってごちゃまぜで飲んだり食べたり交流するような活動をしている。映画に映し出されるその光景は沈没家族とよく似ていて、なんだかとても嬉しくなった。
どこにいようとも、金がなくとも、交流があれば生きていける。コロナ禍でなかなか人と会えない現在、沈没家族の試みは、たくさんのヒントを与えてくれるのだった。
次回は11月4日(水)の予定です。