「沈没家族」を知っているだろうか。
1990年代のサブカルチャーや中央線カルチャーに詳しい人、また「だめ連」界隈をよく知るという人たちにとっては「懐かしい!!」と悶絶したくなるキーワードではないだろうか。
沈没家族。それは90年代の東京・東中野に現れた謎の子育てコミュニティー。シングルマザーの加納穂子さんが、「あなたも、一緒に子育てしませんか?」とチラシを撒いたことが始まりだ。それを見て集ってきた当時の若者たちは、ゆるい感じで生後8カ月の男の子の子育てに関わり始める。
当然、子育て経験など皆無という若者たちがシフトを組み、穂子さんが働きに行く間や夜間の専門学校に通う間にやってくる。そこでお酒を飲んだりみんなと喋ったり。交流の場であり、シェルターのような機能も果たし、「タダ飯にありつける」貴重な場としての沈没家族に、多くの人が関わった。
「沈没家族」という秀逸な名前の由来は、ある政治家の言葉。
「いまの日本は家族の絆が薄くなっている。離婚する家庭も増えている。男は外に働きに出て、女は家を守るという伝統的な価値観がなくなれば日本は沈没していく」
こんな価値観を笑い飛ばした彼ら彼女らは「沈没家族」と名乗るようになる。この試みは90年代末、多くのメディアで取り上げられた。もちろん、当時から私も知っていた。
ちなみに90年代後半、私は東中野の隣駅・中野でフリーターをしていた。当時、愛読していたサブカル系雑誌に、沈没家族はよく登場した。そんな沈没家族には、だめ連界隈の人々も集っているらしかった。「だめ連」とは、就職や結婚からいち早く「降りた」ことを宣言していた若者たちのゆるいつながり。当時、やはり多くのメディアで彼らの存在は「新しい生き方」として注目されていた。そんな人たちが次の遊びとして選んだのが「共同保育」のようにも見えた。
たった一駅隣で、自分と同世代の人たちによって、何かすごく実験的なことが行われている。時給1000円程度でレジ打ちなどをしていた当時の私はものすごく興味を駆り立てられていた。だけど、参加する勇気はなかった。参加するには、何か特別な、中央線文化に詳しい言葉や背景を持っていないといけないのだと思っていた。
北海道出身の高卒フリーターの私にはそんなものは微塵もなくて、メディアで騒がれる、貧しくとも楽しそうな彼ら彼女らに、うっすらとした嫉妬心をかきたてられていた。そうして気がつけば、「沈没家族」という言葉を耳にすることはなくなって、その存在自体、忘れていた。
あれから、約20年。
「その人」に会ったのは、数年前の年末、だめ連界隈の忘年会でのことだった。高円寺の汚い雑居ビルの一室にブルーシートを敷き、馬鹿デカいアルミの鍋に肉も魚も野菜もぶち込んで食べるような、そんな忘年会だった。参加者は2、30人。私と同世代の40代が多く、多くが定職がないか無職で、平均月収はおそらく10万円以下という、「だめ連の20年後」みたいな人々ばかりが集まった会だった。そんなだめ連界隈の人々と、この十数年で私はすっかり仲良くなっていた。
その忘年会の一角に、若者がいた。誰かが、そのガタイのいい若者を私に紹介してくれた時、耳を疑った。なんとその彼は、沈没家族で0歳から8歳まで共同保育をされた子どもだというではないか。若者は、「加納土です」と名乗った。当時のメディアを通して、赤ちゃんや幼児の姿しか知らなかった「土くん」は、約20年後、立派な青年となり、全身から「好青年オーラ」を醸し出していた。しかも現在は大学生だという。私はただ、震えるほどに感動していた。
約20年前、東中野で若者たちのノリや悪ふざけが多分に含まれる感じの沈没家族で育ったあの子が、今、これほどに「普通」に育っているなんて。
それからしばらくして、土さん は『沈没家族』というドキュメンタリー映画を撮り、2019年に劇場公開された(『沈没家族 劇場版』ノンデライコ配給)。映画の中、土さんは自分を育てた大人たちと「再会」していく。なぜ、今の自分とそう年の変わらない若者たちが共同保育なんて無謀な試みに足を突っ込んだのか。映画のチラシには「知らないオトナに育てられ、結果、ボクはスクスク育った」というコピーがあった。
そうして20年8月、土さんは『沈没家族 子育て、無限大。』(筑摩書房)という書籍を出版した。
これを読んで、私は改めて土さんのお母さん・穂子さんが自分の3歳年上で、わずか22歳で土さんを産んだと知った。そして彼女の母親は女性史の研究者として有名な加納美紀代さんだということも。本を読んで、私は、1990年代からずーっと言語化できなかった、妊娠や出産にまつわるあれこれに、自然と向かい合っていた。
今年出した『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』(あけび書房)という本で、私は社会学者の貴戸理恵さんと対談している。
対談のきっかけは、同世代の彼女がある雑誌に書いた以下の言葉に触れたからだ。
〈いちばん働きたかったとき、働くことから遠ざけられた。いちばん結婚したかったとき、異性とつがうことに向けて一歩を踏み出すにはあまりにも傷つき疲れていた。いちばん子どもを産むことに適していたとき、妊娠したら生活が破綻すると怯えた〉
ロスジェネの一人である私は今、45歳。独り身で、子どもはいない。そして周りの同世代を見渡しても、男女問わず独身、子なしのほうが圧倒的に多い。それは東京に住んでいることも関係すると思う。
社会に出る時期がバブル崩壊後の大不況と重なった私たちは、非正規第一世代でもある。30代前半ではリーマンショックが起き、その後、アベノミクスで新卒の就職が改善したと言っても無関係。周りには40代になっても年収200万円以下というワーキングプアが当たり前にいる。当然、未婚率は高く、家庭を持つ人も少ない。
そんなロスジェネ女性たちと、40代になる頃、「もう子ども産めないんだね」としみじみ話したことがある。生まれる年が少し違っていたら、社会に出る年があと少し早かったり遅かったりしたら、結婚して母親になったかもしれない自分の人生。友人の中には、彼氏も自分も派遣だったから結婚を考えられず別れたという人もいれば、彼氏との子どもを妊娠したものの、職が不安定な2人ゆえ、「生活が破綻する」と中絶した人もいる。
貴戸さんの友人の中にも、若い頃に中絶した人がいるという。そんな友人は今、やっと生活が安定し、不妊治療をしているという。