が、断ったもっとも大きな理由は、そういう売り方をしていけば、30歳になった途端、仕事がなくなることがわかりきっていたからだ。私にこの頃持ちかけられ、断った多くの仕事が「若い女」という記号だけが必要なものだった。記号でしか必要とされないものは、記号がなくなった瞬間、びっくりするほど鮮やかに切り捨てられる。
もうひとつ、覚えているのは20代の頃、複数の雑誌から「脱ぎ」を持ちかけられたことだ。しかも、正式に企画書を持ってきてとかじゃなく、たまたま会ったついでに「あ、そうだ、脱がない?」という気軽さで。
そんなことを言うおっさんは大抵、人の全身をニヤニヤしながら眺め回し、なんでもないことのようにそう言うのだった。上司が私に「脱がない?」と言った途端、男性部下たちがすごい勢いで私を口説いてきたこともあった。その執拗さは「密室で契約書にサインするまで帰さないマルチ商法」のようだった。今思い出しても悔しくて泣けてくるが、そんな「脱げハラ」も30歳になった途端になくなった。
そうして私は32歳で、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版、のちにちくま文庫)を出版。07年のことだが、これが大きな話題となり、JCJ賞も受賞するなど評価して頂いた。この翌年にリーマンショックが起こり、秋葉原で派遣社員による無差別殺傷事件が起き、年末、派遣切りに遭った人たちが日比谷公園の「年越し派遣村」に集まり、この国に広がる貧困が「再発見」された。このようなことが重なり、若年層の貧困問題を書いた私は様々なメディアで発言を求められることが増え、戸惑いながらも多くのメディアに登場した。
その時も、いろんな人から言われた。
「あなたが若くて女だから、メディアはもてはやすのだ」と。「常にメディアは女で20~30代で社会的な発言をする人を求めていて、今、たまたまあなたがそこの位置にいるのだ」と。そうして「あと数年して、40代になったらその仕事はなくなる」と。
それはある意味、当たっていた。当時から、自覚もあった。なぜ、貧困問題がメインテーマの私に関係ない問題でのコメントを求めるのだろう? そういう戸惑いは常に感じていたし、たまたまその「枠」にいるのだろうと思っていた。そうして40代になってから、その手の仕事は激減した。
もちろん、年齢以外のいろいろな要素も絡まってはいるのだろう。だけど、なんとなくモヤモヤする自分もいる。社会問題を語る30代の女として求められる自分と、下ネタありの赤裸々エッセイや脱ぐことを求められる20代だった自分とは、突き詰めると同じような問題に直面している気がしないでもないからだ。同時に、なんとなく、どちらも「若さ」の搾取という気もする。
そして社会問題を語る若い女性枠には、常に入れ替わり若い女性が座っている。もちろん、素晴らしい業績や才能があり、活動している人々だ。しかし、その枠に座った途端、「若い女」枠として消費されてしまうのではないかと、他人事ながら、勝手にヒヤヒヤしてもいる。
さて、それではメディアなどで発言する40代後半の女性に求められることは何か。
結婚していたり子どもがいたりすれば、その手の話を求められることが多いだろう。40代後半の男性にそんな話を求めることは滅多にないのに。
一方、未婚、既婚を問わず40代後半女性が求められるのは「更年期話」だ。最近、同世代や少し上の女性がその話題でメディアに登場しているのを多く見かける。私が20代の頃、更年期と言えば木の実ナナ氏の独占市場だったのだが(木の実ナナ氏は女優で、更年期の過酷な実態を様々なメディアで発信していた)、今や同世代がこのテーマを語っているわけだ。
もちろん、重要な情報だと思うのだが、40代=更年期というのもステレオタイプすぎないだろうか。
なぜなら「40代、50代でめちゃくちゃ充実したセックスライフを送ってます」という人もいるはずで、そんなテーマにだって需要はありそうだ。
それだけではない。人生100年時代というなら、「90歳からの恋愛・セックス」なんかにもみんな興味があるはずだ。文字通り人生最後の恋なのだから盛り上がるに決まってるし、自分に資産があれば「相続」という問題も絡んでくる。が、相手も高齢であれば、どちらが先に天に召されるかはわからない。そうなったら思い切り年下の人と付き合って資産を残すのがいいのか。しかし、それだと保険金殺人なんかが起こりそうだ。「保険金殺人をしない年下恋人の見つけ方」なんて情報にも需要がありそうではないか。
それなのに、90代を対象としたマーケットには介護用品くらいしかない。
なんだかそれって勿体ない。40代後半女性が更年期一色ではないように、90代だっていろんな欲望やニーズがあるはずだ。これほど「多様性」と言われる時代なのに、年齢による決めつけは人生を貧しくさせている。