今年(2022年)の1月、47歳になった。
ということを口にすると、「いいんだよ、年は言わなくて」と優しげな感じで言われたりする。
いつからか、私はまったく気にしてないのに、私以外の誰かが勝手に私の年齢を隠す。
例えばイベントに出て紹介される時など、だいぶ年上の人に「雨宮さんは若くしていろいろな社会問題に精通していて、って若いって言ってももう40代なんですけど、あ、四十何歳かというのは、それは秘密なんですが……」などと言われるという具合だ。
そういうのを見ていると、「若くない」ということに、どれほどこの国の人々はネガティブなイメージを刷り込まれているのだろうと思う。
もともと私はこの国の「若さ信仰」に多大な違和感を持っており、20代の頃は一刻も早く30代になりたいと願っていた。若くなくなければ、セクハラも減るし失礼なことをされることもなくなるし、防衛能力も上がってくるしで生きやすくなる気がしていたからだ。予想は当たり、年を重ねるごとに生きづらさは確実に減ってきている。
理由のひとつには、「自分のトリセツ」の解読がうまくなったということもあるだろう。10代、20代の頃、私は精神的にかなり不安定でリストカットなどを繰り返し、自殺願望に苛まれていた。が、そんな経緯から、「自分を死なせない方法」「自分の機嫌をとるノウハウ」の研究・開発にいそしみ、今では「この落ち込みには女友達との飲酒」「このモヤモヤには“推し”の動画」など、自ら的確な対策を打つことができるようになったのだ。「うーん、今日は打ち合わせで微妙に傷つくこと言われたから、ちょっと高めの肉でも食わせとくか」という感じだ。
トリセツはメンタル面だけではない。私の場合、若い頃は重度の貧血持ちの上、アレルギー体質でとにかく子どもの頃からずっと体調が悪かった。それが40代にしてやっと楽になってきたのだ。理由は、何十年にもわたる紆余曲折の果てに、合う薬や治療法がようやく定まってきたから。ちなみにこの歳になると同世代から「若い頃と違って体力が持たない」「疲れやすい」などとよく聞くが、若い頃、ずーっと体調が悪かった私としては、今がもっとも体調がいいのである。
このように、私としては「47歳最高!」という気分なのだが、なぜか世間には「加齢」という、時を止める特殊能力でもない限り誰にも抗えないことを「残念なこと」と受け取る人が多い。
例えば2、3年前、「おめでとう」の一言が欲しくて「今日私、誕生日なんだ~」と知人に告げた時。相手は苦み走った顔をし、「そんな年だともうめでたくもなんともないよね……」と勝手に「祝う価値なし」判定を下したのだった。ここまで露骨じゃなくても、世間には「若くない女はそれを恥じ、年齢を隠したいに決まってる」という決めつけが存在する。
が、振り返れば、「もう若くない」みたいな認定って、二十歳(はたち)頃からされてないか? 10代の頃は「二十歳になったらババア」「もう終わり」なんて散々言われ、二十歳を過ぎれば「30過ぎれば本当にアウト」などという根拠なき脅迫に晒されてきた。
しかし、若さのみが価値とされ、ある年齢になった瞬間に価値なしとジャッジするのは誰? と思って、気づいた。それは若さを崇める一部のおっさんなのだと。そんなおっさんに「価値なし」とジャッジされた方がずっと生きやすいに決まってる。そう思った瞬間、私は「若さ信仰」から解放された。
そんな「女業界」で47年も生きてれば、年齢で一喜一憂するのがいかに馬鹿馬鹿しいか、身に沁みて知っている。その上、現在は「人生100年」時代。ということは、47歳なんてまだ折り返し地点手前のひよっこである。それなのに二十歳くらいから「もう若くない」とか言われるなんて、人生の8割をババア呼ばわりされて生きろってことじゃないか。
さて、こんなことを突然書いたのは、このあたりのことについて、一度ちゃんと書いておかなければと思ったからだ。
例えば私が1冊目の本を出し、物書きとしてデビューしたのは25歳。その時、いろんな人に言われたのは、「若い女の書き手ってだけで需要はいくらでもあるから」ということだった。
とにかく世間は若い女が何を考えているのか、どんな日常を送っているのか、そういうことに興味津々なんだからそういうことを書けばいい。エッチな話なんかあると最高。そうすれば仕事はいくらでもある――。業界のおじさんたちは、見事に同じことを言った。
一言で言って、キモかった。なので、そういう依頼はすべて断った。そもそも「若い女」と言っても、20代前半の頃は右翼団体に入っていて、初の海外旅行は北朝鮮という、「若い女」の代表でもなんでもないやさぐれた人間である。