ざっと読んだだけでもわかるように、なかなか手厳しい内容だ。とにかく随所に「日本人に生まれた原罪」が滲んでいるのだ。これはまだまだ続くのだが、終始一貫しているのは、日本人がアジアを犠牲に経済成長の繁栄に浴するなどトンデモない、という論調。が、そんな中、〈日帝本国に於いて唯一根底的に闘っている〉存在として「日雇い労働者」が挙げられている。〈安価で、使い捨て可能な、何時でも犠牲にできる〉存在の彼らの闘いだけはホンモノだと「狼」は認めているのだ。
そんな「はじめに」の後に、〈武装闘争=都市ゲリラ戦の開始に向けて〉という第1章が始まる。
その第1篇は〈個人的準備=ゲリラ兵士としての配慮〉。
ここで確認しておきたいのは、東アジア反日武装戦線のメンバーは20代ながら極めてストイックな生活を送り、職場にも(普通に働いてる人も多かった)近所の人にも怪しまれていなかったらしいということ。そんな「普通の若者」たちがこっそり爆弾を作り、事件を計画していたからこそ、世間を震撼させたのだ。なぜ、そんなことが可能だったのか? 『腹腹時計』には、世を欺くためのマニュアルが書かれている。
まずは表面上、ごく普通の生活人であることに徹すること。そして「左翼的粋がり」を一切捨て、長髪、ヒゲ、「米軍放出の戦闘服」(流行ってたのか?)などは論外であるなどの注意が綴られる。が、桐島聡の手配写真は思い切り長髪だ……。
それだけではない。生活時間を市民生活に合わせること、近所付き合いは浅く狭くだが、最低限、隣人には挨拶すること、部屋に生活用品が何もなく、ポスターやステッカーが散乱しているような状態は絶対に止めること、アパートや下宿に人を多く出入りさせないこと、深夜や明け方までヒソヒソ話をしないこと、部屋は常に整理し、清潔に保つことなど、途中から「お母さんの小言?」と思うような注意が続く。
また、〈極端な秘密主義、閉鎖主義は、かえって墓穴を掘る〉からやめること、酒は飲まぬよう、特に何人か集まっての酒盛りは厳禁であること、顔を覚えられるので特定の喫茶店は利用しないこと、特に左翼系出版物を携行し、学生活動家得意の用語を駆使し、口角泡を飛ばすような行動は絶対にやめること、部屋を「工場」として使用する場合(爆弾作り)、深夜までキリキリ、ガリガリと隣に音が聞こえるような作業をしないよう注意することなどが書かれている。
一方、「合法的左翼」とは付き合わないようにという指令もある。職場でも学校でも居住地でも、とにかくそのような人物との付き合いは厳禁。
なぜなら、〈彼らの圧倒的大部分は、徹底的に質が悪い。口も尻も軽すぎて、全く信用できぬ〉からというあまりにもあまりな評価を下している。
桐島聡がこのマニュアルをどこまで守ったのか、半世紀にわたる逃亡生活ができたのはこの「都市ゲリラ兵士の心得」的なものがあったからなのか、それとも関係なかったのかはわからない。
しかし、20代前半の若さにして全国指名手配犯となり、あらゆる場所に手配書が貼られ、おそらく「日本でもっとも知られた顔」だった彼は、半世紀を生き延びてきた。しかも、40年間も同じ職場で働きながら素性がバレることはなかったのだ。
晩年の彼を知る人によると、保険証がないから歯医者にも行けず、歯はない状態だったという。給料は振込ではなく手渡し。写真を撮られることを極端に嫌がり、自分の指名手配写真が貼ってある銭湯に通っていたというから大胆だ。
そんな桐島聡の目から、この半世紀の日本はどう見えていたのだろう?
一度は「繁栄と成長」を謳歌したものの、東アジア反日武装戦線の事件から20年も経たずにバブルは崩壊。以来、長い停滞が続き、雇用は不安定化。彼らが唯一闘っている存在と認めた「日雇い労働者」は「日雇い派遣」という形でフリーター層に広がり、2000年代にはネットカフェ難民という形で若い世代のホームレス化が始まった。日本は格差社会となり、貧困が蔓延し、かつて「植民地支配」という言葉とセットで語られた韓国にも平均賃金を抜かれるなどの衰退の一途を辿る日本。
それだけではない。
桐島聡が指名手配犯となってすぐ、逮捕されていた9人の東アジア反日武装戦線のメンバーのうち3人は「釈放」されている。日本赤軍が1975年と77年に海外で大使館占拠やハイジャックなどの人質事件を起こし、日本の獄中にいる過激派の仲間の釈放を要求したのだ。「超法規的措置」として10人以上が釈放され、その中に東アジア反日武装戦線のメンバーも3人いた。そうして彼らはそのまま、日本赤軍に合流。
もし、この時点で桐島聡が捕まっていたら。彼も「超法規的措置」として釈放された1人となり、日本赤軍に合流していたのかもしれない。
しかし、彼は逃亡犯。この時点ですでに学生運動は下火になっており、それから長い長い時間、「無風」が続いた。そうして2000年には日本に潜伏していた日本赤軍の最高幹部・重信房子が逮捕。それから11年後には東日本大震災が起きて原発が爆発。全国で脱原発デモが開催されるようになり、「市民デモ元年」なんて言葉が流行ったりした。官邸前には原発再稼働に反対して毎週数万人が押し寄せるようになり、それは「紫陽花革命」と名付けられた。15年には安保法制に反対する学生たちが「SEALDs」を結成。国会前にやはり数万人が集まった。
11年から15年にかけてこのようなムーブメントがあったわけだが、これに胸震わせた団塊世代は多い。特に学生運動経験がある人々は狂喜し(もちろんすべての人ではないだろうが)、官邸前や国会前のデモに参加していた。
あの喧騒を、団塊世代より少し下の桐島聡はどんな思いで見ていたのだろう? 電車に乗れば1時間ちょっとで国会前に来れる神奈川県の藤沢市で、何を考えていたのだろう?