「これは階級闘争のレベルのことだ。階級闘争を担っていない君たちには関係ない」と。
我々は歴史を変えるような高尚なことをしているのだから、何もしていないお前らの要求などに従うわけがない、ということである。こんなことを言う時、気持ちよかっただろうな……。そう思う。
さて、それでは私たちは、「大義」や「思想」によってガラリと変わる学生たちを「愚か」と笑えるのか。
そう思うと、日常に、これとよく似た光景が繰り広げられていることに気づく。
街頭ではない。大学内でもない。スマホやパソコンの中のSNSで日々、集団リンチが繰り返されているではないか。そしてそれが、実際に人の命を奪っているではないか。
その中には、「正義感」を動機とした炎上のなんと多いことか。
「こんなことをするのはひどい」「許せない」という憤り。そして自らがしているのは、間違った人間を正すための「世直し」行為であると信じているような態度。
殺人犯というデマを流され、長年ネットでの誹謗中傷に苦しんできたお笑いタレントのスマイリーキクチさんは、Addiction Reportのインタビュー「ネットでのバッシングは『憎しみ依存症』 人は『正義感』から人を叩く」(もうタイトルからして言い当てている)にて、薬物などで逮捕された著名人に対するバッシングについて、以下のように語っている。
〈叩く材料や落ち度がある人間に対しては、人はすごく凶暴になるなと思います。人を叩くことによって自分はモラルを守る人間だというのを主張したがるのでしょう。だからあそこまで執拗に叩き、追い詰める〉
そうして、SNSでの「一番の人気メニュー」は「怒り」だと指摘する。
〈やはり「怒り」が一番「共感」と「発散」と「興奮」を生む。この3つが引き出されるのは怒りなのですよね。悲しみや楽しさよりも、怒りの方が、みんなでスクラムを組み、自分はいかに正しい人間なのか証明することになります〉
〈みんなが人を叩くことにこれだけ酔いしれるのは、群集心理もあるのでしょうけれども、その人を社会的に抹殺することが「正義」とされてしまう時代だからなのだろうと思います〉
一方、評論家の與那覇潤さんは、京都アニメーション放火殺人事件に関する朝日新聞デジタルのインタビュー「『除菌思考』進む日本 『無敵の人』を『無敵』でなくすのは相互接触」(24年1月24日、朝日新聞)で、「社会の脱臭化」という言葉を使い、以下のように語っている。
〈平成の後半から、日本では「社会のデオドラント化」が進んだと感じています。ネガティブなものは、そもそもこの世に存在しないでほしい。少しでもにおったらスプレーをかけるように「除菌」しようとする傾向が強まりました。同じ時期に普及したSNSは典型です。気に入らない言動や表現を見たとき、「みんなでたたいて、世の中から消してしまおう」とあおる人が増えました〉
この言葉に、さまざまな事象を言い当てられた思いがする人もいるのではないだろうか。
1月、テレビドラマ『セクシー田中さん』原作者で漫画家の芦原妃名子さんが亡くなった。
この件について、私は全然詳しくない。しかし、訃報が報じられる数日前、SNS上での「騒ぎ」はちらっとだが目にしていた。あくまでも私が目にした限りだが、自らの「正義感」からなのだろう、強い言葉で特定の人や組織を非難する言葉が多くあったことを記憶している。そのことは、芦原さんにとって、想定していた数万倍の反応だったのではないだろうか。その大きさに、驚愕したのではないだろうか。
そう思うのは、私自身、何度か炎上や炎上的なものを経験したことがあるからだ。自分の意思とは関係なく拡散され、飛び火していき、手がつけられなくなる恐怖。みんなが自分に怒っていて、今すぐに死んでお詫びしなくてはと思わされたことは一度や二度ではない。
今でも、「あの時、騒動がネットニュースになってたら自殺してただろうな」と本気で思う。自分に突きつけられている銃口が、秒単位で数千、数万と増えていく恐怖。死にたいよりも、一刻も早く死んで詫びなくてはという焦りにも似た思い。
特にX(旧Twitter)の危険度はダントツに高い。私の友人は以前、Twitterを「核兵器や原発と同じで人類には扱えないもの」と評していたが、まったくもってその通りだ。私たちは、自分では到底手に負えない殺人兵器を手にしているのである。
そんなSNSが普及する現在、私は連合赤軍事件を彷彿とさせるような恐ろしい光景を何度も見ている。
例えば連合赤軍も中核派も革マル派も、一般人からはよくわからない微妙な差異があることで対立し、殺し合いをしてきたように見え、それは異様な光景として私たちの目に映る。しかし、令和を生きる人々はそれを笑えるだろうか?
前述した與那覇氏は、以下のようにも述べている。