〈かつてリベラル派と呼ばれる人たちは、異分子と共存していくことを説いたはずなのに、今は、敵視する相手の排除に率先して走る動きばかりが目立ちます〉
確かに、SNSを見れば昨日まで同じ方向を向いていると思っていた人たちが、ワンイシューの違いでいがみあっている。誰かが誰かをジャッジして踏み絵を踏ませようとし、相手が思い通りに動かないと「味方だと思ってたけどあいつは敵だ!」と犬笛を吹く。そうしてわずかな違いで「敵認定」されるとたちまち攻撃の対象になる。
一方、見知らぬ人も通りすがりにナイフを突きつけてくる。この問題についてどんな態度を取るかでお前を生かしておくべきか社会的に抹殺すべきかジャッジしてやるから答えてみろ、という脅しだ。そうしてあらゆる方向から「思想点検」されるという地獄。
連合赤軍は、希望した者が山に入り、そこで仲間殺しという悲劇が起きた。しかし、今はSNSで、いつ誰が生贄になるかわからない。昔だったら「連合赤軍に入らない」「活動に関わらない」という選択があったものの、今はいつ誰が断罪されるかわかったもんじゃない。今、どれほど気をつけていようとも、過去の言動の発掘に熱心な人もいるのだから一瞬だって心安まる暇がない。「心理的安全性」という言葉が注目される昨今だが、世界で一番くらいにそんなものがない場所で、取り返しのつかないことが日々繰り返されている。
映画の中、「革命のため」と叫ぶ若者たちは気持ちよさそうだと先に書いた。が、SNSで誰かを断罪している人も万能感に震えているように見える。人をジャッジするのは気持ちいい。ダメ出しするのは快楽だろう。村中直人著『〈叱る依存〉がとまらない』(22年、紀伊国屋書店)という本には、〈誰かを罰することで、脳の報酬系回路は活性化する〉という研究報告が紹介されている。
私の中にも、自分が正義の側に立ち、誰かを心ゆくまで罵倒したいという後ろ暗い欲望がある。特に人生がうまくいっていないと感じる時ほど、そんな欲望は強くなる。
だけど、私は知っている。SNSの普及による正義の過剰な行使や分断の広まりは、世界中で起きていることだと。私たちは今、人体実験されているようなものなのだ。
「どうして半世紀前の連合赤軍事件なんかに興味があるの?」
時々、聞かれる。その理由は、正義のもとに何もかも正当化されると思う人間の愚かさが、少しも変わっていないと思うからだ。いや、それどころか、過去よりも人間はずっと愚かに、そして傲慢になっていると思うからだ。
そういう意味では、『ゲバルトの杜』は、半世紀前を描きながら極めて今日的なテーマを扱ってもいる。日々、SNSの内ゲバにうんざりという人も、ぜひ見てほしい。5月25日から、全国順次公開である。