「私、昔、東急プラザの屋上から飛び降りようとして、その時のことが新聞記事になったので、今度その記事持っていきますね」
メールに書かれたそんな文章を、思わず読み飛ばしてしまいそうになった。まるで「美味しいスイーツ発見したので、今度持っていきますね」くらいの気軽さだったからだ。え、東急プラザって、去年閉店した、あの渋谷駅前の9階建てのビル? あそこから飛び降りようとしたって、自殺しようとしたってこと?
数カ月前、私の日常を突然大混乱させたメールの送り主は、S川Y子さん。私より一つ年下の40歳。以前から私のイベントなどに来てくれていて、最近、ある会でご一緒してからよく連絡を取り合うようになったのだ。そんな彼女がメンヘラ(さまざまな生きづらさや精神的な病を抱えた人の総称)だということは、話の端々から伝わってきた。そして重度のサブカル好きだということも。
私ももともと10代、20代はバリバリのメンヘラとして過ごし、また長らくサブカル好きという病を患っているため、Y子さんは『ガロ』系漫画のこととか自殺した漫画家・山田花子の話とか、今となってはあまり語り合える人のいないジャンルについて語り合える貴重な人となっていたのである。
Y子さんは、サブカルだけでなく、文学や芸術全般について幅広い知識を持つ才女だ。そしていつも礼儀正しく、言葉づかいが美しい。パッと見て「いいとこのお嬢様」に見えるため、そんな彼女に「飛び降り自殺未遂の過去がある」なんて誰も思わないだろう。
そんな彼女に今回取材を申し込んだのだが、それには理由がある。今のY子さんが「幸せ」と断言するからだ。いろいろと生きづらさをこじらせて、東急プラザの屋上から飛び降りようとまでして、その後精神科に入院したりして、40歳の今「幸せ」と断言できる理由はなんなのか。
そこに強く惹かれるのにも、やはり深い理由がある。それは私自身がメンヘラだった20代のころ、まわりのメンヘラ友人知人たちが、次々と自殺という形で命を落としていったからだ。また、2003年ごろには「ネット心中」が「流行」し、顔見知りが山奥のレンタカーの中から白骨化した遺体で発見された、なんて話も身近にあった。
私はずっと、勝手な罪悪感を持っていた。今から十数年前の2000年前後、ちょうどインターネットが登場して「自傷系サイト」などで多くのメンヘラたちがオフ会などで出会い、交流を深めていたころ。私も「生きづらさ」を抱える一人としてそこにいた。
話題はリストカットやオーバードーズ(過剰服薬)や精神科で処方される薬のことばかりで、みんなが「死にたい」と言いながらも、きっと「生きる方法」を探していた。だけど、そんな方法は皆目わからなかった。私自身もみんなと同じようにフリーターで何者でもなくて、こんなに苦しい自分を「わかってほしい」という傲慢な欲望に取り憑かれていた。自分が誰にもどこにも必要とされていないことが、苦しくて仕方なかった。
結局、私は25歳で物書きになった。それも、自傷的生き方がある意味で「評価」されてのことだった。本気で自分の命などどうでもいいと思っていた私は、リストカットなどでは飽き足らず、なかば自傷の延長なような形で右翼団体に入ったり、北朝鮮やイラクに行ったりしていた。そうしたら、「何か書いてみないか」という形で仕事が入り始めたのだ。
今思っても、首の皮一枚で繋がったのだと思う。あの時、「書く」という仕事を得ていなかったら、私は自分が生きられているイメージがまったくないのだ。
そうして私が一冊目の本を出した2000年ころ、そしてそれ以降も、多くのまわりの「メンヘラ」と言われる人々(多くが同世代の女性だった)が、自ら命を絶っていった。今思い出しても、20代のお葬式にはもう行きたくないと切実に思う。
あれから、十数年。41歳の今、思う。働けなかったり、うつだったり、生きることに不器用だったり、そんな自分を責めて、生きていることが迷惑だって亡くなっていった彼女ら、彼らは、もしかしたらほんのちょっとのきっかけで生きていられたのではないか、と。そして時々、あのメンヘル地獄とでも言うべき状況の中、奇跡のような偶然が重なって物書きとなり、随分図々しく生きている自分に勝手な罪悪感が込み上げるのだ。
だから私は、同世代でメンヘラのY子さんが、今「幸せ」ということに俄然興味がわいた。彼女はどうやって「生還」し、幸せをつかんだのか。
「メンヘラシンデレラストーリー」と自ら語る彼女に、じっくり話を聞いた。
それではまず、時計の針を1999年に戻そう。この年の4月、22歳だったY子さんは東急プラザの屋上の柵を乗り越え、おそらくもっとも「天国に近い場所」にいた。
当時の彼女は「何しろ狂ってる」状態だったそうで、記憶は断片的だ。振り返ってもらうと、いろんなことが重なっていた。「自己の最高傑作」と言えるほどの大学の卒論(テーマを聞くと、それだけでおかしくなりそうな難解なものだった)を執筆し終わり、「卒論ハイ」状態だった。数年間付き合った彼氏と別れ、新しい彼氏ができたりとゴタゴタしていた。飛び降りようとする数日前には突然「沖縄に行かなきゃ!」という衝動が起こり、元彼を訪ねて沖縄に行っていた。が、食べられなくなり、喋れなくなり、「なんか変」になっていた。そうして東京に戻り、一人暮らしの部屋に荷物を置くとタクシーに乗り、向かった先が東急プラザ。タクシーのメーターが数千円になるのを見つめながら、「ああ、この額だったら実家帰れるのに帰らないんだなー」と他人事のように思っていたという。
そうして屋上に上り、柵を越える。ビルの縁に座り、足を宙にブラブラさせていると、気づいた向かいのビルの人が、窓から「やめてー!」と叫び出す。下を見ると、通行人。「当たったらヤバイぞ」と思った彼女は、力の限りに叫んだという。しかも、笑顔で。
「落ちますよー! どいてくださーい!」
ワラワラと集まってくる通行人。屋上にいる彼女からは、地上から「やめろ、やめろ」と叫ぶ人々が「えのき茸」のように見えたという。彼女はその時の心境を語った。
「やめろって言ってても、こいつら私が飛び降りたらどうせ人に自慢して話すんでしょ」
そうしているうちに、パトカーが到着。警察官が3人ほどやってきて、彼女は年配の警察官にガシッと抱きとめられた。
「入院させてください、ヤバいです私、入院させてください」
この「飛び降り騒動」の中、唯一彼女が「死にそうな顔」になった瞬間だという。あとはずっと、笑顔だった。警察官に連れられて屋上から1階に降り、パトカーに乗せられる時も、彼女は集まった野次馬たちに「お騒がせしましたー」と笑顔で手を振っている。
のちに彼女を助けた警察官は、新聞記事で以下のように語っているという。
「死神っていうのはいるんだね」(警察官)
「なぜそう思うんですか?」(新聞記者)
「現場の匂いだね」(警察官)
なんだか文学的な台詞だ。それがどんな匂いだったのか、Y子さんにも未だにわからない。
さて、そうして彼女は警察署で「腫れ物に触るような」取り調べを受け、都内の精神科に送られる。その後、実家のある県の精神科病棟に入院。が、3カ月ほどして外泊許可が出て実家に戻った際、事件が起きる。
ワイドショーを見ていた時だった。画面にはいろいろヤバかった時期の「ともちゃん」こと華原朋美氏が映し出されていた。馬に乗り、「バーテンダーにプロポーズされた」ことなどをウツロな目で語るともちゃんを見ていて、「やばいこのままだと、ともちゃん死んじゃう」と思ったところから記憶がない。気がついたら、病院のベッドの上だった。
あとで母に聞くと、風呂場で首を吊っていたのだという。顔はすでにうっ血して血豆のようなものができ、発見した母親(看護師の資格を持っている)に人工呼吸を施されて救急車に乗せられたのだった。
「その時、死にたいとかは思ってないんですけど、働いてないし、なのに病院代ばっか使って、東京の家賃も親に払ってもらって。自殺したら迷惑かけるって言いますけど、私が生きてると迷惑ってなっちゃって」
この辺りに、彼女の生きづらさの根がありそうだ。話を聞いていると、幼少期から成績優秀で「人に迷惑をかけない」子どもだったことがうかがえる。大学のころも、軍服パブなどで働きつつ奨学金をもらい、優秀な成績をキープし続けていたという。
「今思うと、そのころの私、苦学生でいい子じゃんって思うんですよね。でも、人に迷惑かけずに生きていこうってやってると、こうやって大迷惑かけることになるんですよ」
その後、再び入院生活が始まる。よかったのは、世代の近い3人の女性患者と仲よくなったことだ。失語症のように話すことができなかったのが、3人とは話せるようになる。
「その3人とは、今も女子会してます。
メンヘラ双六を上がった女
(作家、活動家)
2016/11/03