「女」を最大限に生かし、利用することで得られる対価には果てがない。抜群の容姿と若さをもってすれば、どんな大金だって手に入れられるだろう。古今東西、そんな魔性の女伝説は枚挙にいとまがない。
私自身も、「女を最大限に使って生きること」を夢想したことがないわけではない。
例えば、死に損ないみたいな大資産家のジジイと結婚して遺産をむしり取るとか、大金持ちの妻となり、どうせ金持ちは浮気するだろうから、まんまと浮気していただき莫大な慰謝料をふんだくって一生悠々自適とか…。
しかし、もともとが貧乏人階層である。一体どこへ行けば「お金持ち」に出会えるのか、そこからそもそもわからないし、出会ったとしてもスルーされるのは目に見えている。そのうえ、よく考えてみれば私自身、好きな相手に求めるものは「お金」ではなく、「一緒にいて楽しいか」「好きな顔か」「刺激し合い高め合える相手かどうか」などだ。
「大富豪で、一緒にいて会話が尽きなくて、そのうえイケメンの老人」なんて存在するはずがないし、「イケメンの若い大金持ちに見初められる」なんてことに至っては、37歳の私がこれからオーディションを受け、AKB48に加入したうえに、総選挙で1位を獲得するくらいあり得ない確率だろう。
最初から勝率ゼロの戦いに参加するのは、時間と労力の無駄である。
しかし平成日本に、一人の魔性の女が現れた。なんと1億円近くのお金を複数の男たちに貢がせた女。しかも、彼女は若いわけでもなく、決して美人でもない。そして、2012年4月には殺人罪などで死刑判決を受けている。
そう、彼女の名前は木嶋佳苗。婚活詐欺事件と呼ばれる連続殺人事件の犯人とされ、「平成の毒婦」と呼ばれたあの人である。
彼女が殺害したとされるのは3人。が、裁判を通して、木嶋被告は一貫して罪状を否認し、死刑判決を受けた日には判決を不服として即日控訴している。この判決に対しては、「状況証拠だけで死刑なんて」という声も少なくない。が、ここでは彼女が殺害したのか否か、死刑判決は妥当か否かを論じるつもりはない。ただ一つ、わかっているのは彼女は長い間、「女」を使うことによって金銭を得てきた、という事実だ。
ここで振り返ると、事件が初めて報じられたのは09年10月。1974年生まれの木嶋被告は当時34歳。「セレブな生活」をつづるブログなどが、頻繁にメディアに登場した。口元と巻き髪が映された、「美女風」のブログ写真を覚えている人も多いだろう。
しかし、実際の彼女は、ブログ写真とはほど遠い容姿だった。そうして週刊誌などで次々と報じられたのは、知人男性6人が亡くなっていること、男性たちは多額の現金を彼女に渡していたこと、遺体発見現場からいずれも練炭が見つかっていること、などなどだ。
裁判は、3件の殺人事件を軸に進んだ。ちなみに木嶋被告は、亡くなった41歳男性からは470万円、80歳男性からは270万円、53歳男性からは1850万円を受け取ったとされている。また、この3人以外に、2007年には70歳の男性が死亡しているのだが、この男性は7380万円を木嶋被告に渡したとされている。
なぜ、若くもなく美女でもない彼女が、男性たちからこれほどの金銭を得ることができたのか。裁判には「佳苗ガールズ」と呼ばれる、30代女性たちが登場したことも、大きな話題となった。
彼女の裁判を傍聴したコラムニストの北原みのり氏は、著書『毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』(朝日新聞出版)の中で、木嶋被告に「一目会いたい」と、傍聴券を求める佳苗ガールズたちの声を紹介している。
「男性の結婚観って、古いですよね。介護とか、料理とか、尽くすとか、そういう言葉に易々とひっかかってしまう。自分の世話をしてくれる女性を求めているだけって気がするんです。佳苗はそういう男性の勘違いを、利用したんだと思う」
佳苗にあこがれている、という別の女性はこうも言う。
「堂々としているから。私は、男が求める女を演じて、ついつい媚びたり、笑ったりしちゃう。そういう自分が嫌なんです。でも、佳苗って、男に媚びる演技はするけど、実は全然媚びていない。ドライですよね」
実際、彼女は男性たちから巻き上げたお金を「本命男に貢ぐ」でもなく、自分のために使っていた。高級輸入車のベンツを買い、高級マンションに住み、有名料理教室に通い、ブランドバッグを買い…。20歳頃からデートクラブで働き始め、以来、女を売る行為で生計を立ててきた彼女について、北原氏は書く。
「佳苗ほど、自分を大切にした女も珍しい。自分の体を労り、おいしいものにこだわり、きれいな茶器にこだわり、妹たちと温泉を楽しむ豊かな生活。姪と甥とは、かつて幼い頃に自分が父にしてもらったように、共に台所に立ち一緒にケーキやクッキーを焼く日々。それは美しさと丁寧さと愛情に満ちている」
そうして彼女は、どれほどの大金を手に入れようとも、「美容整形」に使うことはなかったらしい。普段は化粧もしなかったという。
そんな彼女は、男性たちにはっきりと金銭を要求している。遠回しにねだるのではなく、額を指定し、振り込ませている。そこに私は、ある種の衝撃を受けるのだ。どうして自分に、それだけの価値があると思えるのか。なぜ自分とのセックスや、自分と過ごす時間がそれだけ尊いものだと思わせることができたのか。
その言葉のあとには、「ブスなのに」「太ってるのに」という呟きが続く。しかし、木嶋被告は常に、自信たっぷりに見えるのだ。見上げるほどの「自己肯定感」の強さ。それはすべての女性が、手に入れたいものではないだろうか。
自信たっぷりの女は、そうでない女に比べて数倍魅力的である。そんな彼女は裁判で「名器自慢」まで始め、法廷をパニックに陥れてもいる。「売春」という、一般的にはうしろ暗く、女性を傷つけ、壊すもの、というイメージがある行為を繰り返してきた木嶋被告。しかし、彼女がそのことにまったく揺らいでいないように見えるのは、なぜなのか。
『毒婦』には、こんな一節がある。
「結局のところ、私たちは、未だに女のセックスや女の容姿、つまりは女であることを取り扱いかねているのかもしれない。なぜ女は体を売って悪いのか、なぜその職業がこんなに貶められているのか、なぜ男は女を買い続けるのか、結婚に私たちは何を求めているのか、無償のセックスで女は何を得られるのか。女はこの社会でどう生きれば、愛されるのだろう。自由になれるのだろう」
この国で、「女」として生きることはやっかいだ。そして私には、佳苗ガールズたちが「女」をこじらせているように見えるのに対し、木嶋被告本人は、ものすごく強引で極端なやり方で、「女」に一つの折り合いをつけたように見えるのだ。
そんな彼女と私は同い年で、同じ北海道出身。そして高校を卒業した1993年、まだバブルの残滓が残る東京にやってきたという、いくつかの符号点がある。
次回は7月5日(木)、「孤独死」をテーマに考えます。