しているとしたら、それはどんな恋だろう。
自分が成長できて、いい刺激をたくさんもらえて、仕事なんかを「頑張ろう」と思えるような、そんな健全な恋だろうか。それとも、もうつき合いが長くなって、なんとなくマンネリだけど、でもまぁこいつがいない人生なんて考えられないよな……というような、ちょっと物足りないけど、安心感と安定感は抜群のまったり系?
あるいは、なかなか連絡がとれなかったり、自分のことをどう思ってるのか、自分たちの関係がなんなのかわからずに日々悶々とし、かと思ったら、突然、気まぐれに連絡が来たりして、そのたびに友人との約束をドタキャン……というような、振り回され系の恋かもしれない。
さらに、その上をいくのが、「もう周りが何も見えなくなってる系」の恋だ。
相手に執着し、束縛し、詮索する。場合によってはケータイをのぞき見したりと、やってることはほぼストーカー。メールの返事がないだけで「この世の終わり」のように落ち込み、会えるとなると、世界は一瞬でバラ色に変貌。相手の態度によって、感情は常にジェットコースター級の急上昇と急下降を繰り返し、その姿は、端から見ると病気の一歩手前。
当然、この状態になると、友人との約束ドタキャンは当たり前、仕事や日常生活にまで支障をきたしていたりする。「犠牲」にしたものが多ければ多いほど、相手からの「見返り」に対しての期待が大きくなるので、フラれでもしたらもう目も当てられない。
このように、「恋」は時に人を成長させ、輝かせる。
しかし反対に、人をボロボロにする可能性もはらんでるのだから恐ろしい。あなた自身にも経験があるはずだ。そして周りの人の中にも、「あんなにしっかり者だったのに!」という女子が、恋に落ちた途端、いきなり豹変して驚いた、なんて経験もあるのではないだろうか。
かくいう私も、恋というやっかいな感情には、振り回されてきた。メールの返事をじりじりと待つ深夜、恋心は「執着」に姿を変え、そのうちにほとんど「殺意」に近い感情に変わっていたりするのは、よくあることだろう(え? 私だけ?)。
自分がおかしい、という自覚はあるのに、やめられない。しかも時に、明らかに「破滅」の方向に突き進んでいたりする。でも、一度壊れたブレーキは、決して元には戻らない。もうブレーキの踏み方すらも、わからなくなっている。
そんな「恋」について書こうと思ったのは、精神科医である香山リカさんの「ほどほどの恋」(東京書籍)を読んだからだ。タイトル通り、ほどほどの恋を勧める本書は、はっきり言って恐ろしい本である。思い当たるところがありすぎて、ページをめくるのが怖いほどだ。本書には「恋で変わってしまう女性」が、何人も登場する。
例えば、マスコミの仕事を希望してアメリカの大学院に進んだ、という向上心あふれる20代の女性。しかし、2年後に道半ばで帰国した彼女は、なんとなくやつれた様子。聞けば、彼氏ができたという。相手は留学生仲間で、お金持ちの中国人。やがては帰国する彼とともに中国に渡ることも考えていたものの、結局、彼は単身帰国。留学してからずっと彼に夢中だった彼女は、アメリカで友だちも作らなかったので一人ぼっち。授業やゼミの内容も理解できず、「アメリカよりも日本のほうが中国に近い」という理由で帰国したのだという。しかし、中国の彼からはたまーにメールの返事が来るくらい。
この女性を、私はまったく笑えない。今、恋の渦中にいる女性も、きっと笑えないと思う。恋とはたぶん、そういうものなのだ。
しかし、と本書を読み進めながら、ある理不尽さに気づいた。なぜ、女子がこれほどまでに、恋ごときでおかしくならなければならないのか。もちろん、おかしくなる男子も多数いるが、女子の場合はひと味違うと思うのだ。そうして、思い至った。一般的に女子の方が、恋愛によって「人生のすべてが変わる」確率が、はるかに高いのである。
例えば、この女の子が中国の彼とうまくいった場合を想像してみよう。「マスコミの仕事という夢」など忘却の彼方、彼とともに中国に渡って結婚、というのが、おそらく彼女にとっての「もっともハッピーなシナリオ」なのではないだろうか。
でも、これが男女逆だったら? わざわざ海外留学までした男性が、自分の夢を忘れ、ほれた女の母国にまでついていく、ということはあまり考えられない(もちろん、そういうケースもあるだろうが)。
このように女子の人生は、時に恋愛や結婚によって、すべてが変わる可能性をはらんでいる。そして私自身も、小さな頃から「幸せな結婚こそがゴール」であるかのような刷り込みを全方向から受けてきた。なんだかその辺りに「恋愛でおかしくなっちゃう女子」の秘密が隠されている気がするのだ。だって、人生かかってるんだから。
だけど、どうして「自分の人生」という大切なものを、恋愛から続く「結婚」によって、誰かにそっくり回収されなくてはいけないのだろう。なんだかとても、理不尽だ。
さて、本書でもっとも恐ろしいのは、「親」について触れた後半部分だ。
香山氏は、診察室を訪れる人たちの口から発せられる、「親から無条件に承認されたい」という言葉を引用する。なぜ、彼らはここまで親に執着し、「どんな自分でも認めてほしい」と狂おしく願うのか。なぜそんな欲求が、非現実的なまでに高まっているのか。香山氏は書く。
「その理由のひとつとして考えられるのは、親にでも無条件に肯定してもらわないかぎり、今の社会のなかで自分の存在価値、存在意義を確認するのがむずかしくなった、ということがあるだろう」
ああ、それだけは言わないで……。結局、恋愛でおかしくなってしまうのもその部分なのだ。誰かに無条件に愛されたい。丸ごと認めてもらいたい。こんな私を承認し、必要として欲しい。その思いは、おそらく誰の心の中にもくすぶっている。そして恋愛は、「無条件の承認」を、錯覚かもしれないけれど、一時的に与えてくれる。
そうなった時、何が起きるか。
10代、20代の頃の自分の恥をさらすと、私の恋愛の多くは「トラウマ大放出祭り」だった。ちょっとでも「この人、私のこと受け入れてくれてる!」と思ったが最後、それまでのトラウマ全開で「丸ごと私を受け止めて、愛して、肯定して、承認して!」と迫る。
相手にとっては悪夢だろう。今思えば、その頃の恋愛は「自分への自信のなさ」とか「近い将来への不安」とか、いろんなものがもうごっちゃになって、とっちらかって、ワケわかんなくなってて、その思いを「全部受け止めろ!」とばかりに、豪速球を一方的に投げ続けている「特訓」のようなものだったのだ。
本当に、迷惑をかけた相手には、菓子折りの一つでも持っていきたいくらいである。相手にもいろいろあっただろうに、私は自分のことだけで精一杯だったのだ。
ここまで書いてきて、なんとなく、わかってきた。
結局、私も、そして多くの人も、誰かに無条件に承認されたくて仕方ないのだ。だけど、私自身が誰か一人のすべてをずーっと無条件に愛して、承認して、肯定し続けることなどないように、私に対して、誰もそんなことはしてくれない。だからここは一つ「自家発電」方式で、無理矢理自分で自分を肯定し、承認していくしかないようである。
静かに「自分への自信」を蓄積していくことでしか、たぶん、いい恋はできないのだと思うのだ。
※次回は10月4日(木)、テーマは「居場所」の予定です