2003年のイラク戦争から今年でまる10年。大規模戦闘が行われた年の翌04年、イラクで日本人3人が、武装勢力に拉致された事件を覚えているだろうか?
3人はイラクで支援活動をしている、民間ボランティアやカメラマンだった。彼らを人質として拘束した武装勢力は、日本政府に対して「自衛隊の撤退」を要求。3日以内に撤退しないと、全員を生きたまま焼き殺すと宣言した。
結果的には無事に解放されたのだが、帰国した彼らを待っていたのは「自己責任」なる言葉を燃料にした大バッシングだった。
伊藤めぐみさんという、まだ20代の女性監督が撮ったこの映画は、あの事件から9年たった「元人質」の高遠菜穂子さんと、当時10代だった今井紀明君の2人が、どんな日々を送っているのかを描いたドキュメンタリーである。イラク戦争から10年後の日本や、世界のあり方を問い直すような内容で、改めて「自己責任」という言葉について考えさせられた。
自己責任――。この言葉に、あなたはどんなイメージを持っているだろうか。
元人質だった今井君は、映画の中で「自己責任って、死ねってことじゃないですか」と語っている。確かに彼らの行動に対する「のこのこイラクに行って捕まったのは、軽率な行動のせいで自己責任だ」という非難の声は、直訳すると「だから助けなくていいのだ」「面倒だから死んでしまえ」ということになる。
一方で、なぜイラクの武装勢力は自衛隊の撤退を要求したのか、という問題も浮かび上がる。いや、それよりも前に、なぜイラク戦争が起きたのか。そのことを考えていくと、今度はまったく別の「責任」が浮上する。
例えば、開戦の最大の根拠となったイラクの大量破壊兵器は、そもそも存在すらしなかったことは周知の通りだ。そのことはアメリカ政府も認めているものの、日本は、そんな「勘違い情報によって始まった戦争」を、真っ先に支持した国である。
そして、イラクの子どもたちをはじめとする民間人が殺されることに、この国の税金が使われた。
そんなイラクを、開戦前から支援してきたのが、高遠さんや今井君といった民間ボランティアだ。イラクの子どもたちを、なんとか助けたいという行動の最中、不運にも武装勢力によって拉致された彼らが、自己責任と責められた現実がある。かたやイラク戦争を始めたジョージ・W・ブッシュ大統領や、それを真っ先に支持した当時の小泉純一郎首相は、今に至るまでなんの責任も問われていない、という現実もある。
ちなみに、この戦争によるイラク人の死者は10万人以上。この事実の前で、ただただ思うのは、一体、責任を問われるべきはどちらなのだろう? ということだ。彼ら人質を批判する時には、さんざん「救出費用など税金の無駄づかい」と言われたものだが、「なんの罪もないイラクの人を殺すために、この国の税金が使われている」ということについては、当時、ほとんど話題にすらならなかったのだ。
「自己責任」は、私自身が長く取材を続けている貧困問題でもバッシングに使われる常套(じょうとう)句である。
もちろん、人が貧困や様々な困窮に至るまでには、本人の落ち度もあるだろう。褒められないことの一つや二つはあるだろうし、本人にも「あの時、ああしていれば」という思いは、確実にあるはずだ。
しかし、だからといって貧困で厳しい状況にある人が、自己責任として放置されていい理由にはならないと思う。例えば11年の1年間に、日本で「食料の不足」と「栄養失調」で亡くなった人の合計は2000人以上。1日に5人近くが餓死している、という現実があるのだ。
アメリカのシンクタンク「ピュー・リサーチセンター」が実施した、こんな国際調査をご存じだろうか。
「自力で生きていけない人たちを、国や政府は助けるべきだと思いますか?」
様々な国の人に投げかけられた質問だ。
「助けるべき」と答えた人の割合は、ヨーロッパの国々で50%を超え、中国で46%、アメリカでは28%だった。対して日本では、15%の人しか「助けるべき」と答えなかったという。
また、ドイツではホームレスの人が生み出される原因について、8割が「社会の問題」と答えるのに対し、日本では8割が「当人のせい」と答えるのだという。
さて、ここまで書いてきたことでわかっていただけると思うのだが、私自身は「自己責任」という言葉も、その考え方もあまり好きではない。その言葉は大抵の場合、「様々な社会的矛盾に対して思考停止をするため」に使われているからである。特に日本の場合は。
しかし、そんな私でも「こればっかりは自己責任」と決めている領域がある。それはやはり「恋愛」分野だ。もう、これだけは仕方ない。
惚れちゃった自分の責任なんだからしょうがない。そう思った瞬間、ふと楽になる。どんなに辛かろうと、苦しかろうと、自分の責任で、自分の意志でこの恋を選択しているのだ。そう思うと、何かを相手のせいにしなくてすむ。私は今、この恋を誰にも何も強制されず、勝手に自らの意志で選択しているのだ、というどうにもならない事実……。
最近、神社でおみくじをひいた。結果は「末吉」で、恋愛運のところには「障害がたくさんあるけど乗り越えろ」というようなことが書いてあった。思い当たるところがないわけではないけれど、やっぱり私は「惚れてるんだから仕方ない」と開き直ることにした。
というか、この世の中に、障害の一つもない恋など存在するのだろうか。古今東西、恋物語の大きな盛り上げ装置として、活躍してきたのが「障害」である。身分や階級の差、人種の違い、戦争など「本人同士ではどうにもならない系」の障害から、現代に至っては遠距離、不倫、相手にパートナーあり、生活苦、仕事が忙しすぎて会えない、身体の病気、メンタル系の病気、家族問題、借金、果ては「相手が受刑者」など、障害のジャンルは無限だ。
私自身も今まで様々な障害に出合い、それを乗り越えたり、乗り越えられなかったりしてきた。だけど結局、いつも同じ結論にたどり着く。もう、好きなんだから仕方ないのだ、と。惚れた自分の責任なのだ、と。そう思えるうちはいい恋をしているのだと思う、きっと。そして惚れてるんだから仕方ない、と思えているうちは、どんな障害だって乗り越えられる気がする。
恋に悩み苦しむ時、誰かのせいにするか、それとも自己責任として引き受けるか、「女」が試される瞬間である。しかしDVや妊娠がらみなどの時は、一人で悩み自分を責めることは、決してしてはいけないので要注意☆
次回は2014年1月9日(木)、テーマは「理想の1年」の予定です。