あなたが最後に「抱きしめられた」のはいつだろうか? 相手は誰? どんなシチュエーションで? その時あなたは、どう感じた?
突然そんなことを問いたくなったのは、永田カビさんの『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』(2016年、イーストプレス)という漫画を読んだからだ。
帯紙には「28歳、性的経験なし、生きづらい人生の転機」とある。
タイトル通り、28歳でキスの経験もないカビさんがレズビアン風俗(レズ風俗)に行くレポだ。頭皮にはハゲ。腕には自傷のあとがびっしり。そんな彼女がレズ風俗に行くまでの葛藤がすさまじい。読んでいて、何度も「わかる」と涙ぐみそうになった。
カビさんの苦しみが始まったのは10年前。大学を半年で退学し、気がつけばうつと摂食障害になっていたという。体重は38キロ。「自分にはものを食べる資格がない」と思っていたという彼女はその後、拒食から一転、過食へ。「○○する資格がない」シリーズは他にもあり、「性的なことを考えてはいけない」とも思っていた。子どもでいたほうが、両親が可愛がってくれると思ったから。
小さな頃から「親の評価」が絶対だったという。自分がどうしたいかより、親のご機嫌をとることが優先される日々。しかし、ある日、気づくのだ。
だからこんなに苦しかったのでは?
そう思った彼女は一念発起、《レズビアン》《風俗》と検索する。自分の本心が知りたい。自分で自分を大切にしたい。親のご機嫌とりから解放されたい。そのためには、「考えること」さえ禁じていた「性的なもの」に体当たりするしかない。
そうして風俗に行くという選択肢を得た翌日、「世界は広くなっていた」。親のためでなく、自分のために行動することの充実感を初めて知るのだ。同時に、自分の「見た目」が気になる。それまでは5日くらい平気で入らなかった風呂に毎日入るようになり、服も下着も毎日着替えるようになる。自分のために時間や手間やお金を使うこと、自分をきれいに保つことが「自分を大切にする」ことだと知る。
そうして彼女は、レズ風俗を予約し、当日を迎えるのだ。
詳しくは本書を読んでほしいが、まさに「渾身の一冊」だ。漫画でも小説でも、ごくたまに「これを書かないと死ぬ」という著者の怨念のこもった作品と出合う。もしくは「これを書けたら死んでもいい」というほどの。この一冊は、まさにそれに該当する。
漫画を読んで、自分自身のことを思い出した。
私自身も、「私が○○する資格がない」と思っていた時期があった。中学時代にイジメにあい、こてんぱんに自尊心が破壊され、当時は「自分は楽しんじゃいけない」と思っていたし、一生恋愛なんかしてはいけないのだと思っていた。うっすらとした自己否定感はかなり尾を引き、「ものを食べてはいけない」という変な縛りは20代半ばくらいまで続いていた。もちろん、死なない程度には食事をしていたものの、極力食べないようにしていた。
今でもたまに20代前半の頃の友人に会うと、私がほとんどものを食べなかったので「摂食障害だと思ってた」と告白される。自覚はなかったが、今思えば、異常なほどに食べることを禁じていた。
そんな状況だったけど、10代後半の頃から「恋愛を自分に禁じる」ことはしなくなっていた。なぜ「私なんかは恋愛禁止」から解放されたのか、いくら考えてもわからない。本当に、たまたまだったのだと思う。なんとなく友人がいたとか、なんとなく付き合う相手ができたとか。だけど漫画を読んで、それなりの自己肯定感や人間に対する信頼がないと、恋愛や性的な行為に不可欠な「心を開く」なんて芸当はそうそうできるものではないのだと、改めて、つきつけられた。いろんな条件や前提が奇跡的にそろって、人は初めて誰かを抱きしめたり、抱きしめられたりできるのだ。
それにしても、と思う。
この国では、なんて普通に「大人」になることが難しいのだろうと。
例えば、カビさんの「子供でいた方が両親は可愛がってくれると思ったから 大人になってはいけないと思っていた」という一文。この言葉に、共感できる人は多いのではないだろうか。
一方で、社会も「女の子」の「成熟」に変に敏感だ。
年相応に、恋愛や異性や性的なことに興味を持つと「親」や「教師」的な存在からは全否定される。しかし、突然「大人の男」は「お前の性を売れ」という圧力を直接的・間接的にかけてくる。同時に「未熟であれ、成熟などするな」というメッセージも投げかけてくる。
自分が成熟したほうがいいのか悪いのか、自分が何かトンデモなく隙だらけだから変なオッサンに声をかけられるのか、心も体もいつも傷ついてちぐはぐで、常に欲望の主体ではなく客体として扱われるので、自分は本当は何がしたいのか、当たり前にある自らの欲望と折り合いがつけられなくなる。そんな無限ループ。そして「女」であることから降りたくなる。
カビさんは、「自分が女だと認識したくない」のだという
「やっぱり女の子だね」「女になったな」という言葉を投げかけられたりして、「『女』であると過剰に定義されるのが怖いというか…」
その感覚、とてもわかる。だけど、長いこと忘れていた。私はいつどうやって自分の中の「女」と折り合いをつけたのだろう。いや、どうやって日々、折り合いをつけ、いろんな葛藤を「なかったこと」にしているのだろう。
そんなこんなを考えていて、20代前半、キャバクラで働いていた頃のことを思い出した。当時は90年代後半。世の中はブルセラブームで、客のオッサンは当たり前に「女子高生を買った」話などをキャバ嬢である私にするのだった。なんの悪気もないようだった。「みんなやってるから」と、みんな言った。はやりものみたいな感じで未成年買春をしているのだ。っていうか、「みんなやってる」ってポケモンGOかよ?
怖くて仕方なかった。「大人の男」は全員狂っているのだと思った。そんな頃、知人に誘われて北朝鮮に行く機会があった。独裁国家で問題だらけの国で餓死者もたくさん出てたけど、私が北朝鮮で衝撃を受けたのは、「立派で尊敬されているオジサン」がいるという事実だった。
軍服に勲章をたくさんつけたその人は、プエブロ号事件で活躍したという軍人だった。プエブロ号事件とは、1968年、アメリカの海軍船が領海侵犯を理由に北朝鮮に拿捕(だほ)された事件。多くのアメリカ人が身柄を拘束されたのだが、その軍人のオジサンはその時、果敢に戦ったというのだ。
胸にびっしりとついている勲章はその時の名誉の勲章で、オジサンは、自分がどのようにして戦ったのか、私たちに熱く語ってくれた。話を聞いた時には北朝鮮の若い女の子なんかもいて、みんな「祖国を守ったヒーロー」を、憧れのまなざしで見つめていた。
その時、私は「なんか、いいな」と思ってしまった。尊敬できる大人がいる世界。もちろん北朝鮮はトンデモない国だけど、「大人の男性があれほど尊敬に満ちたまなざしで見つめられる」光景を私は初めて見たのだ。それはこの国には、決してない光景だった。そして何よりも「いいな」と思ったのは、その軍人のオジサンは絶対に女子高生とか買わなさそうなところだった。
大人が信頼できる世界と、欲望のためならなんだってやらかしてしまう大人しかいない世界。そんな世の中で、うかつに女なんかやってらんないよな。漠然と、思った。そんなこんなの背景があり、当時の私は右翼団体に入っていた。私のいた団体はブルセラブームなどを「堕落の象徴」と批判し、「北朝鮮の軍人」っぽいストイックさがあったのだ。究極的にはもう、フリでもなんでもいいから、「信じられる大人」に存在していてほしかった。
さて、この国で、無防備で女でいることは難しい。だけど心を閉ざしすぎてしまったら、カビさんのような苦しみがあるのも事実だ。彼女はレズ風俗での体験と行くまでの葛藤を通して、自分がどれほど誰かに抱きしめられたかったかを知る。そして、そんな体験を漫画に描き、認められるという行為を通して心が満たされていく。
読みながら、私自身の一冊目の本、『生き地獄天国』(2000年、太田出版)を書いた時の気持ちを何度も思い出した。これを書けたら死んでもいい、と思っていた一冊。これを書かなきゃ死んでしまう、という覚悟で書いた一冊。
ふと夜中、ネットを見ていると、「カビさんの漫画を読んで『生き地獄天国』を思い出した」という書き込みを見つけ、嬉しくなった。
次回は9月1日(木)の予定です。
彼女がレズ風俗に行ったわけ
(作家、活動家)
2016/08/04