「生まれ変わったら男になりたい? 女になりたい?」
よく聞くせりふだ。
「男と女、どっちが得だと思う?」
これもよく聞く。この手の質問に、あなたはどう答えるだろうか。
私自身はと言えば、ずっと「女」と答えてきた。しかしそもそも、なんでそんなふうに答えてきたのだろう? この原稿を書くにあたって改めて考え、思い出した。それは「この手の質問」をされた多くがお酒の席で、相手は「私が20代の頃、キャバクラで働いていた時の客」だということ。特に「どっちが得」系。そうしてキャバ嬢時代の決定的な出来事を思い出した。ある日、酔っぱらい相手なので深く考えず適当に「男」と答えたところ、客のオッサンは烈火のごとく怒り出したのだった。
オッサンの言い分を要約すると、「女のほうが得に決まっている。なぜなら男は厳しい競争の中で働き、誰にも弱みを見せられずに孤独に日々戦っている。それに比べて女はなんと楽なことか」というようなことで、そんな「血で血を洗うような職場という戦場」で戦う男性のほうが得とはなんたることか、お前は全然社会というものをわかっていない、とご立腹なのだった。そんな話の後には、「軍隊だって男しか行かないんだぞ!」というオマケ。
ちなみにその男性に軍隊経験などもちろんない。しかも現実を見れば、米軍をはじめとして各国の軍隊には女性も多くいるわけで、日本の自衛隊にだって女性隊員はたくさんいる。しかし、彼の目には「男が徴兵された太平洋戦争」しか見えていないようなのだった。
さて、そんな客は、毎日が「戦い」と言いつつも19時の開店と同時に店にやって来るなど随分暇なようで、しかも「弱みを見せられない」「孤独」と言いつつも、いつも同僚と一緒にキャバクラに馳せ参じており、しかもキャバ嬢相手に会社の愚痴を延々と垂れ流すなどしておられたのだった。自己認識とやってることがここまで違うと人生いろいろと楽だろうな、と思う。
そんな出来事があって以来、私は学んだ。「どっちが得」系の質問は、相手が男性の場合、多くが男性の優位性を確認するためのトラップなのだと。以来、私は「男と女、どっちが得だと思う?」と聞かれた際には「女!」と即答するようになった。「だって男の人って大変そうじゃないですかー」などと思ってもいないことを付け加える技術も体得した。すると多くの男性は目を細め、「よしよし、お前は男の苦労を理解しておる」と満足げなのだ。
まぁ、日常から離れたキャバクラという場所で、そういうことを言ってもらいたいのだろう。当時は漠然とそう思っていた。が、驚いたのは、私がキャバ嬢でなくなっても、そういうことを言う男性が世の中には多くいるという事実だった。
「いいよなー、女は気楽で」から始まるざれ言の数々を聞くたびに、何度時給を請求したくなったかわからない。また、気がつけば世の中には、「女ばかりが得をしている」という言説が一定の支持を受けていることも知った。それらは大抵、映画のレディースデーや女性専用車両などをきっかけとして語られている。
一体、一部の男性たちにとって「得」で「楽」に見えている女性像とはどのようなものなのだろうか。
そんなことを考えていたところ、ツイッターで「#日本で女性として生きること」というハッシュタグと出あった。ツイートを見てみると、セクハラ、性暴力、容姿を常に値踏みされるといった問題から「男を立てなきゃいけない」問題、「バカなふりしなくちゃいけない」問題、「知ってるのに知らないふりしなくちゃいけない」問題、「稼いでるのに稼いでないふりまでしなくちゃいけない」問題などなど身に覚えのあるつぶやきのオンパレード。
はたまた既婚者層からは、共働きなのに家事・育児のすべてがのしかかり、夫に何かしてもらうと「ごめんね」と言ってしまうけどなんでそんなこと言わなくちゃいけないのだ、といった内容のつぶやきもあれば、家事育児だけでなく介護をして当然という空気への違和感、また単身女性からは男性と比較した賃金の安さ、扱いの違いといったことがつぶやかれる。
読んでいて、「ウルストンクラフトのディレンマ」(メアリー・ウルストンクラフトは、18世紀イギリスの女性作家でフェミニズムの祖と言われる人物)という言葉を思い出した。以下、雨宮まみ著『女子をこじらせて』(2015年、幻冬舎文庫)の上野千鶴子氏による解説からの引用だ。
「女でなくても傷つき、女であっても傷つく。これは多くの女にとって見慣れた風景だろう。しごとができればできたで、『女にしては』と評価されるいっぽうで、『女だから』評価されたのだとおとしめられそねまれる。しごとができなければ論外だ。男の社会のうちに女の居場所はないし、逆に女の指定席に座ってしまえば一人前に扱われない。あまりになじみの経験なので、これに『ウルストンクラフトのディレンマ』と名前がつけられているくらいだ」
なんだかもやもやすることは、名前がつくといきなり論点が明確になる。私自身、この言葉と概念にどれほど救われてきただろう。しかし、どれほど論点が整理されても「男社会」が変化する兆しは残念ながらあまりない。
少し前も、私より年下の30代男性と話していて(というか一方的に話を聞かされて。これもよくあるパターン。女は男の話を黙って聞く生き物だと思っている)、昭和に強制的にタイムスリップさせられたような感覚にめまいがして倒れそうになった。
私が倒れそうになったのは、彼の「理想の結婚相手」が「おしん」だということ。昭和の差別と不幸を丸ごと背負った少女が「理想」だと、私より年下の男性は堂々とのたまうのである。それはその男性が、女性を家政婦か奴隷としてしか見ていないという恐ろしいカミングアウトで、直訳すれば「自分は人権意識のかけらもない大馬鹿野郎です」と言ってるに等しいのだが、彼は滔々(とうとう)と、自分の母親がいかに「おしん」的な献身でもって日々夫や息子に尽くしていたかをうっとりとした様子で語り続けるのだった。息子から見て、非の打ち所のない「いい母親」なのだろう。しかし、私は思った。「いい母親」は、時に女性の人権の敵になり得るのだと。そして「なんでも言うことを聞いてくれる奴隷のようなお母さんみたいな人と結婚したい」という内容のことを嬉々として話している彼が、おそろしく不気味に思えた。
最近知った言葉に、「よい嫁は福祉の敵」というものがある。やはり上野千鶴子氏の「みんな『おひとりさま』」(2012年、青灯社)を読んでいて知った(今度対談するので、いろいろ読んでいるのだ)。介護などについて書かれた文章で、上野氏は以下のように書いている。
「高齢者福祉政策も、見直しが必要だ。現在の介護保険は、家族の介護資源があることが前提に設計されている。『日本型福祉』のもとで『家族は福祉の含み資産』と公言することはさすがになくなったが、それでも亀井静香さんのように『子が親を看る美風』を信じている人たちは多い。通訳しよう、『家族は福祉の含み資産』とは、『嫁さんがいるから公的福祉はやらなくていい』という意味だし、『子が親を看る美風』とは『女房に自分の親の介護をやらせるのが、男の甲斐性』となる。だからこそわたしは、『よい嫁は福祉の敵』と言ってきた。最近では自治体の『孝行嫁』表彰はなくなったが、こんなオヤジにつごうのいい制度をよく続けてきたものだと思う」
孝行嫁表彰……。介護嫁表彰、模範嫁表彰という言葉もあるようだ。だったら孝行夫表彰、介護夫表彰、模範夫表彰というのも作ればいいのに、そんな言葉はどこを見回してもない。
この国では、男性は経済的自立さえしていれば、そうそう責められることはない。しかし、女性はその上で家事や育児まで完璧にこなすこと、「男を立てる」ことまでが求められ、時には仕事をしていることについて「旦那さんの理解があっていいわね」なんて意味不明なことを言われ、育児に手がかかったり介護を必要とする家族がいれば仕事を続けていることを責められ、やむを得ず仕事をやめて介護に専念などすれば、誰もねぎらってなどくれない。男性だったら、少しは褒められるのに。
さて、ここで冒頭の言葉に戻りたい。
「生まれ変わったら男になりたい? 女になりたい?」
「男と女、どっちが得だと思う?」
ここまで書いてきたものの、私は「男」とは即答できない。だってもし男になったとして、まわりの男性がここまで書いてきたような「昭和のオッサン価値観」ばかりだとしたら辛すぎる。
結論。どっちがいいとかじゃなく、「女はこうあるべき」「男はこうあるべき」という価値観から解放されたほうが、みんな幸せになれる気がするのだ。
次回は10月6日(木)の予定です。
男と女、どっちが得だと思う?
(作家、活動家)
2016/09/01