最近、駅で新幹線のチケットを買っていたら、近くにいるおじさんが何やらぶつぶつ言っていた。横目で見ると、Suica(JR東日本のICカード)のチャージをしたいようだが、なかなかうまくいかないらしい。「あれ?」「おっかしいなー」など、聞こえよがしに繰り返しているので声を掛けようかなと思った瞬間、おじさんは突然、キレた。「一体なんなんだ!」「いい加減にしろ!」などと罵声を浴びせている。Suicaの機械に。
その姿を見た瞬間、私の親切心は一瞬で吹き飛んだ。いくら心に余裕がある時でも、「キレている」人に話しかける勇気などないしそんな義理もない。そのうちおじさんは、罵声とともに機械をドンドンと力任せに叩き始めた。多くの人が注目していたが、みんな遠巻きに見ているだけ。「困っていたおじさん」は、一瞬で自らを「通報案件」にしたのだった。
高齢と言っていい年齢だったことから、機械の使い方がわからず困惑することは多くあるのだろう。そんな苛立ちが爆発したのかもしれない。現代の社会にはタッチパネルなど、慣れない高齢者には使いづらいものが多くある。今までも「機械相手にキレている」高齢者を見たことはあった。が、そのおじさんを見て、気づいた。私が今まで見かけた「機械にキレる高齢者」って、全員が男性だと。高齢の女性がそんなふうにキレている姿を私は見たことがない。
なぜだろう……。そう思った時、ふと「男の不機嫌」について書かれたある文章を思い出した。それは恋バナ収集ユニット「桃山商事」の『生き抜くための恋愛相談』(2017年、イースト・プレス)。この本には「男の人ってなんですぐ不機嫌になるの?」という章があるのだが、その理由は「便利な手段だから」という身も蓋もない事実が解説されている。そんな「不機嫌」で得られるのは、「要望や要求が通る」「プライドが保てる」「相手が合わせてくれる」「優位にやり過ごせる」「気を遣ってもらえる」など。また、不機嫌を言語化したものとして「俺は悪くない」「心中を察しろ」「お前が変われ」「早く終わらせて」などが紹介されている。
Suicaのおじさんはすでに「不機嫌」を通り越していたが、「不機嫌」を撒き散らす男性は、これまでも多く見てきた。彼らは決して自分の気持ちを言語化せず、ただひたすら不貞腐れて不機嫌さをアピールし、「とっとと俺の気持ちを忖度して俺様の機嫌を直せよ!」という無言の圧力を全身の毛穴から発している。もちろん、赤の他人だろうが身内だろうがそんな「男の不機嫌」に付き合ってやる気などハナからないので放置していたのだが、彼らは「不機嫌になる」ことで、どうやら多くのものを得ているのである。
それにしても、この国の少なくない男性は、自分の気持ちを言語化することが恐ろしく下手である。Suicaのおじさんだって、困ってるなら「すみません、これわからないんでちょっと見てもらっていいですか」と普通に誰かに聞けばよかったのだ。それなのに、わざと聞こえるように「あれ?」と繰り返し、誰も気づいてくれなければキレて暴れ出す。「自分の要望を言葉にする」という人間として当たり前の部分が、あまりにもあっさりとすっ飛ばされている。だけどそんな人に「そういう時は『すいません、助けてください』って言えばいいんですよ」とアドバイスしたところで、「そんなこと俺に言わせる気か!」と怒鳴られそうだ。
おそらく、この国の一部の男性(特に年輩の人)は、自分の思いを言葉にする訓練ができていないのだろう。自分がこれまで接してきた「おじさん」たちを思い出しても、会話の内容はと言えば仕事の話のみ。企業社会の価値観が思い切り内面化されているので、まず発想が「営利活動に貢献するか否か」だったりする。また、男同士の会話は「競争」ベースで、会話の醍醐味である「共感」など一切なく、とにかく「自分のほうがこれを知っている」「自分のほうが偉い」といったマウンティングをしている光景も珍しくない。
会社では仕事の話。家に帰っても企業の論理をふりかざし、仕事帰りにスナックなんかに行っても同僚と仕事の話。スナックのママには愚痴なんかを言ったりするだろうが、「客」の話をママは否定などせず聞いてくれるだろう。が、これでは人間としてのコミュニケーションを訓練する場などどこにもない。企業人としてのコミュニケーションはそつなくできても、何かが恐ろしく欠落している。そんなおじさん、あなたの周りにもいないだろうか。
さて、そんなことを考えていた時期、キャバ嬢の労働組合「キャバクラユニオン」の布施えり子さんと対談する機会があった。彼女の『キャバ嬢なめんな。――夜の世界・暴力とハラスメントの現場』(18年、現代書館)という本の出版記念イベントで、タイトルは「キャバクラ・癒やしとハラスメントの労働」。
この日はまず、「なぜ、全国津々浦々にこれほどキャバクラなど男性を癒すシステムが存在するのか」について語った。キャバクラやガールズバーなど、日本人にとってはあまりにも馴染み深いものだが、欧米などには基本的にない。ヨーロッパの人などと話すと、「なぜ、家族や恋人と過ごす時間を減らしてまでそのような場所に行くのか」と、まったく理解できないという顔をされる。
そんなキャバクラ労働のハラスメント性について、布施さんは話してくれた。楽しくお酒を飲みに来るような人もいる一方で、明らかにキャバ嬢を「いじめる」ために来る客もいる。「いつまでこんな仕事してんの」などとしつこく絡んでくるような客もいる。お金を払って誰かをいじめることでストレスを発散したい――、そんな男性の欲望に応えるための感情労働。それがなぜ、これほどまでに全国に浸透しているのか。
この答えは、以下にある。臨床心理士の信田さよ子氏は、著書『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』(08年、春秋社)にて、男性のみが癒される日本社会の「オッサン天国」性について「父」たちにこう語りかけている。
「あなたたちは、たぶん他者からねぎらわれることに慣れているだろう。飲み屋に行っても『おつかれさん』と言われるだろうし、バーやスナックに行けばママさんがいっぱいねぎらうことばを掛けてくれるだろう。金を払えば女だって同じだろうと思われるかもしれないが、その点では男女は明らかに非対称的である。男性をねぎらうシステムは社会の再生産構造の中にちゃんと組み込まれている。あなたたちを癒すことが、日本経済の発展を支えることになると考えられているからこそ、膨大な歓楽街は存在し、家族の中ではちゃぶ台返しなどの好き放題が許されてきたのだ」
そうなのだ。信田氏の書く通り、男性への癒しはすでに社会に組み込まれている。キャバクラやスナックだけではない。さまざまな趣向をこらした風俗だって多くある。日本の男性が安全で安価に癒され、性を買えるシステムは完成している。一方で、女性が安全に安価に癒されるようなシステムというと私はなかなか思いつかない。常に女性は「癒す」側。「いやいや、ホストや女性用風俗だってあるじゃん」という声もあるだろう。しかし、男性がキャバクラや風俗に行くよりずっとハードルは高い。
一方で、絶対に存在しないのが女性にとっての「スナックのママ」的な存在だ。
ママ。私は以前から、この言葉にずっと違和感を持っている。もちろん、「ママ」本人を否定するものではないのだが、いい年をしたオッサンどもが「ママ」「ママ」と言うたびに、はっきり言って虫酸が走るのだ。なぜ、お母さんでもないのに「ママ」なのか。何かこの言葉に、男性癒しシステムの究極形を見るのだ。
もちろん、性的サービスはない。キャバクラのような華やかさもないだろう。しかし、手作りの料理を出してくれて、「うんうん」とずーっと話を聞いてくれる「ママ」。性欲とかキャバ嬢いじめたい欲とかいろいろあるわりに、一周回って一番癒されるのは「母性」かよ、と突っ込みたくなるのだ。
翻って、私は「パパ」という職業を知らない。ママがいるならパパだって同じくらいの数いたっていいはずなのに、「女性客が通うスナックのパパ」なんて、聞いたこともない。が、もしあったとしても絶対に行きたくない。
「パパ」はきっと「ママ」のように女性客の話を黙って聞いてくれることなどないだろう。気がつけばアドバイスという形で持論を展開し、説教をはじめ、そこから延々と「俺の武勇伝」を聞かされる羽目になるのではないか。それはもはや「俺が俺が」と俺の話を押し付ける「俺俺スナック」に他ならない。金貰ったって行きたくない。そして「父性」は、私にとっては癒しとは一億光年ほど遠いものである。百歩譲って「クッキングパパ」的な料理自慢の「パパの店」ならいいかなと思ったものの、そういうオッサンって、オリーブオイルとロックソルトと塩麹がアイデンティティーみたいなこだわりを持ってそうで、どうせ蘊蓄(うんちく)を聞かされるに決まってるのだ。やっぱ面倒なので却下。
Suicaのおじさんから話は広がりまくったが、ここまで書いて、気づいた。