「女子校生活を送っている私は、女性としての生きづらさを感じたことはありません。この問題に対して、何を考え、どう行動していけばいいかと考えてもなかなかわかりません。何かアドバイスはありますか?」
11月17日、聖心女子大学(東京都渋谷区)で開催された「世界子どもの日ユース・フェスティバル」にて、高校1年生の女の子からこのような質問を受けた。「生きづらい世の中、私たちも#MeTooしたい!」と題されたトークイベントでの一幕だ。
女だから、ということで発生する生きづらさを特に感じていない。それは一言で言えば「女だからこうしろ」「女のくせに」などの理不尽さに晒されていないということで、それ自体は非常にいいことである。21世紀になって、ちょっとはいろいろ前進しているのだ、と寿ぎたくなる出来事だ。もちろん、「女子校だから」という前提があることを見落としてはいけないが、女子校だからこそ「女の呪い」をかけられる場合も多々あるわけで、「生きづらくない」という高校1年生の姿がなんだか眩しかった。
翻って自分が高校生の頃を思い出してみると、平成になるとほぼ同時に女子高生になった私は、昭和から続く呪いの言葉に日々晒されていた。
「女の子なんだから家事をできるようにならないと」「でも勉強も頑張っていい大学に行かないと」「でも成功しすぎると男の人に嫌われるからほどほどに」という“スタンダード呪い”から始まって、社会人として自立することを目標に掲げられつつ、同時に「より条件のいい男をつかまえる」ことも暗に求められるようになる。母親はそのための服装やメイクなんかにも細かく口を出し、なんだかそれは「そのままのお前ではなんの価値もないのだ」と存在を頭ごなしに否定されているようで、そしてそんな価値のない自分を無理やり「商品」に仕立てて売り飛ばそうとしているようにも見えて、いつも反発を感じていた。
だけど、高校生の頃の自分を振り返ると、自分がされたこと、かけられた言葉について「女だからこその生きづらさだ」と思ったことはない。未成年だから言われることと女だから言われること、未成年の女だから言われることが全部ごっちゃになっていて、どれもが等しく「うざい大人の小言」でしかなかったからだ。
それよりも「女」という問題に対して違和感があったのは、母親や親戚のおばさんや祖母といった「年上の女性たち」が男社会から受けていた扱いである。
例えばそれは、葬式とか法事とか正月とかお盆なんかの行事の際に顕著に現れる。
かいがいしく台所で立ち働き、料理を作って運び、お酌する女性たちと、ただ座り込んで出されたものを飲み食いし、酒が足りなくなると「おーい、ビールないぞー」などと叫ぶだけの男たち。女は働き、男は座っているもの。女が料理をしたり食材の買い出しに行ったりしている間、男はパチンコに行くもの。小さな頃の私は、そんなふうに思っていた。そして子どもの頃は、そんなオッサンたちに混じって自分もただ座って飲んだり食べたりしていた。
しかし、高校生くらいになると、私は強制的に「子ども枠」からはじき出された。親戚のオッサンたちが、私を「かいがいしく働き、自分たちの世話をする女」の一人としてカウントし始めたからだ。ある時から突然、「おーい、ビール持ってこい」などと女中のように扱い始めたのだ。
え? この前まで「子ども」枠だったからよくわかんないんだけど……。戸惑っていると、「そんな気がきかないようじゃいいお嫁さんになれないぞ」とか言われて、酔っ払いたちが一斉に笑う。子ども枠にいた頃の私にとって、親戚の集まりは結構楽しいものだった。夜更かししても怒られない「非日常」だったから。しかし、「子ども枠」から「女中枠」へと移動してからは、ただただ気が重いものとなっていた。一方、かいがいしく働く女たちは女たちで、台所で夫の愚痴などを言い合うという「台所女子会」みたいな感じで楽しそうだったのだが、そっちの女子会に入るには、私はまだ幼すぎた。
冒頭の講演会で高校1年生の女の子には、そんなことを話し、「自分自身は女ならではの生きづらさを感じなくても、家族や親戚など上の世代の女性を見ていれば気づくことがあるのでは」なんて話をした。
が、今、「これも言えばよかった」と後悔していることがある。それは「普段は問題がないように見えても、何かあった時に差別が剥き出しになる」ケースについてだ。
例えば、東日本大震災の時の有名なエピソードとして、避難所でみんなの食事を作る女性たちは無給だったのに、避難所から瓦礫撤去の仕事に行く男性には日当が出た、という話がある。女性たちは、出かける男性たちに弁当まで持たせていたのに。
差別とは、まさにこういうことだと私は思う。このシステムを決めたのは、間違いなく男性だろう。なぜ、女たちには日当が出ないのか。それは一部男性の中に「女が食事を作るのは当たり前」「賃金が発生するようなことではない」という昭和の忘れ物みたいな思い込みがあるからである。一方で、瓦礫撤去という力仕事をする男性には賃金が発生する。しかし、どちらもともに被災し、家族を亡くしたり家を流されたりし、今後の生活に等しく不安を抱えているのだ。現金収入が必要なのは、男も女も変わらない。なのに、こんなことがまかり通るのだ。
「男たちは危険な瓦礫撤去をしているのだ。避難所で飯炊きをしている女たちとは違う」と言うのなら、一週間、男女で役割を交代してみればいい。圧倒的に食材が不足し、水もガスも排水事情なども十分でない中、数十人、数百人分の食事を1日3回、毎日作ってみればいい。その上弁当まで作るのだ。それがどれほど大変なことであるか、わかるはずだ。
私が怖いのは、この国で決定権を握り、政策立案などに関わる多くが「女は無給、男は有給」というようなことをナチュラルに思っているっぽい男性、という事実である。まずはこういう人に変わってもらうか、変わらないならいなくなってもらうしかないわけだが、なかなか席を譲ろうとはしない。
しかし、こんなことはまだまだ序の口なのだという本を最近、読んだ。
それは姉歯暁(あねは・あき)著『農家女性の戦後史――日本農業新聞「女の階段」の五十年』(こぶし書房、2018年)。本書はサブタイトルにある通り、日本農業新聞の女性投稿欄「女の階段」に寄せられた投稿、その50年分を振り返りながら、日本の農家、そして農業政策の変化にも迫るものだ。
そんなこの本に多く登場するのが、現在80代から90代、もしくはそれ以上の女性たち。「明治生まれの姑につかえ、戦後生まれの嫁との間に挟まれる“サンドイッチ世代”」(『農家女性の戦後史』)である。
投稿には、戦後間もない日本の農村で、ボロ雑巾のように扱われる「嫁」の恨み、苦しみの言葉が叩きつけられている。
農作業だけでなく、家事、育児、介護一切を押し付けられ、休む間もない日々。職住一体なので、24時間光る夫と姑、舅の監視の目。妊娠しても出産ギリギリまで働かされ、出産後もすぐに農作業に出されてしまう。少しでも休むと「怠けている」と罵倒される。
「体を壊せば、実家から医療費を出させるよう義父母から命じられ」たり、「実家に戻される」こともある。「欠陥品を売りつけた側に責任がある」となじられた嫁もいる。「姑の命令で堕胎を余儀なくされ、病院から自転車で帰宅した直後に畑に出ろと言われた嫁もいる」。そんな生活から抜け出したくても抜け出せない。なぜなら、「無償労働で貯え」などない女性たちは、そこがどんなに過酷な状況でも「『家』にすがりつく以外に生きる術がないから」(以上、同書)だ。逃れようとすれば、住む場所も仕事もそして子どもも、生活基盤のすべてを失う。著者はこのことに対し、「ここにいる嫁の姿は単にタダ働きの労働者というより、全人格が支配される奴隷制社会における奴隷の姿に近い」(同書)と書いている。
そんな状況の中、嫁たちの中には「ある犯罪」に手を染める者も出てくる。万引きだ。
子どもの学用品や下着を「買ってほしい」と、どうしても夫や姑、舅に言い出せない。よって運動会、学芸会などの時期になると、小さな万引きが農村で増加する。1960年の正月、ある商店街で万引きをした女性53人のうち、ほとんどが近在の「農家の嫁」だったという。金額は10円から800円。盗んだものは、自分のものではなく多くが子どものもの。
また、本書には「ミルク泥棒」をしていた過去を告白する女性も登場する。
舅が一家の財布を握っており、「ミルク代をください」と言ってもなかなかもらえなかったのだという。嫁いだ時に持参したお金は、すでに長女のミルク代に消えていた。そうして長男が生まれるものの、毎日怒られながら重労働をしていたため、母乳はすぐに出なくなってしまう。
「毎日、わずかのミルクを薄めて飲ませるのです。