「あなたは何も悪くない。あの時あなたがとった行動がベストだったんだよ。そんな言葉が当たり前に聞こえる社会になる日まで、何度でもこの言葉を口にしようと思います。声を上げれば誰かに届いてエコーします。だから諦めないで、一緒に声を上げていきましょう」
その日、元TBS支局長からのレイプ被害を訴える伊藤詩織さんのメッセージが読み上げられた。2019年4月11日、東京駅前の行幸通り。性暴力と性暴力判決に抗議するために、急遽開催された「フラワーデモ」でのことだ。集まった約400人の女性たちが掲げるプラカードには、「裁判官に人権教育と性教育を!」「おしえて! 性犯罪者と裁判長はどう拒否したらヤダって理解できるの?」「Yes Means Yes!」「#MeToo」などの言葉たち。この日のアクションを呼びかけたのは、作家の北原みのりさんなど。今年3月、性暴力に対して無罪判決が相次いだことを覚えている人も多いだろう。
判決の多くに共通するのは、女性の意思に反した性交だったと認めながらも、「抵抗が著しく困難だったとは言えない」「抵抗できない状態だと男性が意識していなかった」などの理由で無罪が下されている点。
3月12日、福岡地裁。テキーラなどを飲まされ、意識が朦朧(もうろう)としていた女性に性的暴行をしたとされる事件。女性が抵抗できない状況を認めつつも、男性は女性が合意していたと勘違いしていたとし、無罪。
3月19日、静岡地裁。強制性交致傷罪に問われた男性が、「被告から見て明らかにそれとわかる形での抵抗はなかった」として、無罪。
3月26日、名古屋地裁。娘が中学2年の時から性虐待をしていた父親が、無罪。その理由は「心理的に著しく抵抗できなかった状態とは認められない」から。
3月28日、静岡地裁。17年当時12歳の長女を2年間にわたり週3回の頻度で強姦した罪に問われていた父親に対し、「家が狭い」ことを理由に、長女の証言は信用できないとして、無罪。
わずか1カ月の間にこれほど続いた司法判断を受け、この日のアクションが急遽、開催されたのだ。
この日、集まった女性たちは次々と飛び入りでスピーチした。そんな中、もっとも耳に残ったのは「あなたは悪くない」「あなたは間違ってない」という言葉だった。被害に遭った女性を責めるような世論はいまだにあるけれど、だけど、ちっともあなたは悪くない。
そんな言葉を耳にして、ふと自分がセクハラの被害に遭った時のことを思い出した。20代の頃、まだ作家になる前で、キャバクラで働いていた頃。キャバクラの客にも日々散々な目に遭っていたけれど、それはプライベートな人間関係で起きた。
詳しいことは省くが、とにかく男性と密室で二人きりという状態で、突然接触を伴うセクハラを受けたのだ。怒りを前面に出して帰ればいいものを、相手との人間関係上、キレたり突然帰ったりとかそういうことを「しちゃいけない」と思い込んでいた。困り果てた挙げ句、私はトイレに行くふりをして当時信頼していた男性に電話をかけた。
こんなことになってて、怖いから逃げたいんだけど、どうしていいのかわからなくて……。混乱しながらそんなことを言ったと思う。「助けに来てくれる」ことは期待してなかった。そこまでは無理だけど、例えば電話でその相手に何か言ってくれたら、というくらいの淡い期待はあった。というか、どう考えてもその時は自分の人生の中で五本の指に入るくらいの危機で、すがるように助けを求めてかけた電話だった。
だけど、電話の相手はものすごく冷淡だった。呆れた様子で、怒りを隠さない声で言ったのは、以下のようなことだった。
そういう目に遭う自分が悪い。隙があるからそういうことになる。っていうかいい年してるんだから、子どもじゃないんだから自分でなんとかしたら? こんなふうに電話とか、かけてこられても困るっていうか……。
顔がカッと熱くなった。ああ、私ってなんて浅はかでバカで甘え腐ってるんだろう……。「穴があったら入りたい」という言葉はこういう時のためにあるのだと思った。セクハラを受けるという恥の上に、さらに「助けを求める」という恥を上塗りした気分で、「なんて勘違い女なんだろう!」と、消えたいような気持ちになった。
結局、私はなんとかしてセクハラの密室から逃げ出した。
今思えば、「人間関係を壊しちゃマズい」とか「怒って帰るなんて失礼にあたるのでは」なんて、そんなことどうでもよかったのだ。セクハラをされた時点で、その相手との人間関係なんて終わっているのだ。向こうが破壊してるんだから終わらせるべきなのだ。だけど、それまでその相手は私の中で「信頼できるいい人」の部類に入っていた。そんな人が突如「セクハラ男」に豹変したことに、私の脳はついていけなかった。これこそが「正常性バイアス」だろう。だからこそ、ただただ混乱の中にいた。
その日は逃げ出したものの、どうしても許せなくて、後日、セクハラ男と共通の知り合いに相談することも考えた。だけど、共通の知人として頭に浮かぶのは男性ばかりで、セクハラ男と知り合ったコミュニティーに女性は一人もいなかった。
「相談なんかしたら、いい酒の肴になってみんなに笑い者にされるだけだ」
すぐにそう思った。そしてそう思ったことに、また深く傷付いた。みんなのことを信頼し、対等な関係だとばかり思っていたのに、そう思っていたのは自分だけだったのだ。やっぱり自分は「勘違い女」なのだと自分を恥じた。
それからしばらく、最悪の気分の日々を過ごした。忘れようとしても忘れられなくて、だけどそのたびに、助けを求めた相手にかけられた冷たい言葉を思い出した。もしかして、悪いのはセクハラ男じゃなくて私なのでは? 後日、助けを求めた人に会った時、突然あんな電話をしたことを謝った。
「その後どうなったか」とか少しは心配してくれたのではと思ったけれど、まったく何も聞かれなかった。ただ、私に「隙がある」ことに対して怒っているようだった。怒られるの、私じゃなくない? そう思ったけれど、何も言わなかった。
それから二度と、この手のことで私は助けを求めなくなった。誰にも。自分でなんとかするのが当たり前。変に人に相談したら、自分が軽蔑されるだけ。初めて助けを求めた時の「突き放された」という経験が、私のSOSを強固に封じた。
だからこそ、友人や知人に性被害について相談された時、どうしていいのかわからなかった。もちろん自分がされたように突き放したりはしなかったけれど、かと言って話を聞くしかできなかった。私がなんら有効なアドバイスや情報を持っていないことに、特にこの十数年はがっかりされることが幾度かあった。
「雨宮さんだったら、こういう時どうすればいいかとか、いろいろ知ってると思ったのに」
そう言われることがあったからだ。