Ⅰ「危機の時代」と小林秀雄
前回、近代日本人の「生」に対する省察——日本人自身による「保存と修正」のやり方——を見定めるために、西田幾多郎と九鬼周造という二人の哲学者に焦点を定め、その思想のかたちをスケッチしておきました。その際に確認したのは、「純粋経験」を一元的に語る西田と、他者との「出会い」を二元的に語る九鬼とでは、一見対照的な哲学を展開しているように見えて、その実〝自己意識を放下する点〟で両者は同じ「日本的性格」(九鬼周造)を示しているのではないかということでした。要するに、「みずから」の主体性(自力)の限界で、「おのずから」(純粋経験・運命・他力)の他性に直面し、最後は、その他性を信じることで、再び「みずから」のかたちを整えること。二人が語っていた哲学は、そのような関係性を調整する倫理だったのではないかということです。
とすれば、次に問われるのは、その「純粋経験」(西田)が、どのようにして「運命」(九鬼)の引き受けと関係するのか、あるいは、「おのずから」なる力(他力)によって整えられる「みずから」とは、一体、どのような形をとるのかということでしょう。
果たして、それに一定の答えを出す人間が、九鬼周造とは一回り、西田幾多郎と比べれば二回り以上若い世代から登場してきます。近代日本に、「文芸批評」という営みをもたらした小林秀雄(明治35(1902)年~昭和58(1983)年)です。
とはいえ、後に、この日本的エートス=倫理学(日本における保守思想)に決定的なインパクトを与える若き批評家は、そのデビュー当時において、圧倒的な「西欧派」でした。たとえば、「再び文芸時評に就いて」昭和10(1935)年のなかで、小林秀雄は次のように語っていました。
「僕に文学批評の術(すべ)を教えてくれたのは彼等〔サント・ブーヴ、アナトール・フランス、グウルモン、ルメエトル、ジイドなどフランスの批評家たち〕であった。いや、僕は彼等にばかり学んだ。わが国の先輩批評家等には一言半句も教わらなかったのである」『小林秀雄全作品6』新潮社
ここに書かれていることは、たとえば小林秀雄の「弟子」の一人である小説家の大岡昇平が、「小林は〔それ以前の正宗白鳥や佐藤春夫などの批評家とは違って〕ベルクソン流の精神主義者である。その仮借なき分析と論理的追求は、それまで私の読んでいた日本の批評とははっきり異質なものだった」(「小林秀雄の書棚」1962年9月、『小林秀雄』中公文庫、〔 〕内引用者補足、以下同)と書いていたことや、あるいは、昭和8(1933)年以降、近代日本の問題に取り組むために小林秀雄が真っ先に向かった先が、日本の古典ではなくドストエフスキーだったということとも相即しているでしょう。要するに、小林秀雄自身、西欧から「その仮借なき分析と論理的追求」の方法を学び、その「分析と論理的追求」(自力)を加速させていった果てに、しかし、それでは捉えることのできない力に、つまり、「おのずから」の他性に目覚めていったのだということです。
そして、そこで見出された言葉が、西欧近代を接ぎ木するための「砧木(だいぎ)の幹」——この言葉自体は内村鑑三によるものですが、小林秀雄の晩年の遺作「正宗白鳥の作について」でも強調された言葉でした——、つまり、日本の「伝統」だったのです。
実際、振り返ってみれば、小林秀雄が登場し、活躍した昭和戦前期(昭和4(1929)年~)は、近代日本史上、最も西洋化が行き詰まった「危機の時代」でした。明治以降、文明開化の道をひた走りに走ってきた日本は、しかし、昭和に入るや否や、突如、自分の生き方について「ぼんやりとした不安」を覚えはじめることになるのです。
確かに、明治の文明開化は、日本に多くの実利をもたらしました。日清・日露戦争の勝利と第一次世界大戦の勝利は、日本に、英・仏・米・伊と肩を並べる「五大国」(アジアで唯一の国際連盟常任理事国)の地位を与えると共に、国内的には「大正教養主義」や「大正デモクラシー」といった明るい夢をもたらすことにもなりました。が、そこで手にした近代化の果実は、やはり、「付け焼刃」でしかなかったと言わざるを得ません。
第一次大戦(大戦景気)に対する反動としての戦後恐慌(大正9(1920)年)、江戸以来の伝統的な生活風景を一変させた関東大震災(大正12(1923)年)、また、震災手形の焦げ付きによる金融恐慌(昭和2(1927)年)、アメリカ発の世界大恐慌に端を発する昭和恐慌(昭和5(1930)年)など……、10年の内に、度重なる凶事に見舞われた近代日本は、昭和に入った頃から急速に明治以降の近代化に対する疑念を募らせ、満州事変(昭和6(1931)年)から天皇機関説事件(昭和10(1935)年)に至るまでの流れの中で、一気に「日本主義」的な「空気」に呑み込まれていってしまうのです。
満州事変(錦州城を占領した日本軍)写真:近現代PL/アフロ
それはまるで、度重なる災害で急拵えのプレハブが崩れ去り、その下から、「故郷を失った日本」の地が露呈してしまったような事態でした。己の価値規範の空虚を自覚せざるを得ない知識人と、都市にさ迷い出てきた「大衆」(オルテガ)、その焦燥と不安から、「プロレタリア革命」や「大正維新」や「昭和維新」が唱えられ、実際、朝日平吾による安田善次郎暗殺事件や、中岡艮一による原敬首相暗殺事件(ともに大正10(1921)年)、佐郷屋留雄による浜口雄幸首相狙撃事件(昭和5(1930)年)などが引き起こされると同時に、五・一五事件(昭和7(1932)年)から二・二六事件(昭和11(1936)年)までの流れが作り出されていった時代、それが、小林秀雄が自己形成を果たし、また、本格的な「近代批評」が要請された時代だったのです。
その点、小林秀雄自身が昭和8(1933)年に書いた「故郷を失った文学」は示唆的です。それは、昭和戦前期において、小林秀雄が立ち向かっていた「批評」への問いが、まさに、にわか仕込みの教養主義では太刀打ちのできない日本人の生きかたの問題であり、任意の作品を前にしたときの私たちの価値判断の「故郷」がどこにあるのかを、言い換えれば、何が善くて何が悪いのかを決める際の批評の基準がどこにあるのかを問う営みだったことを示しています。かくして、小林秀雄は、その「批評」に対する問いの延長線上で、日本人の価値規範である「伝統」について語り出すことになるのです。
なるほど、それは一見、当時流行の「日本主義」に近しい言葉であるようにも見えます。が、その文脈を辿れば明らかなように、小林秀雄の批評は、むしろ「日本主義」を批判し得る射程を——ウィトゲンシュタイン的に言えば、「規則」(rule)を批判し、その手前にある「生活形式」(play)を問い質す射程を——持っていたと言うべきでしょう。
では、小林秀雄は、どのような論理で批評の「故郷」を見出していたのでしょうか? そして、その手応えは、その後の小林秀雄にどのような実践をもたらすことになったのでしょうか? もちろん、ここで詳細を論じ切ることはできませんが——詳しい話は、拙著『小林秀雄の「人生」論』(NHK新書)を参照していただければと思います——、以下、できるだけ簡潔に小林秀雄の「批評」をスケッチしておくことにしましょう。