Ⅳ 「掛け替えのない命の持続感」について——西田幾多郎、九鬼周造、そして小林秀雄
その点、小林秀雄の生き方もまた、西田幾多郎や九鬼周造とその根底で繋がるところがあったと言っていいでしょう。三人は三人ともに、近代/日本の分裂に晒され、その分裂と葛藤を生きながらも、その縫合と調整を、近代=進歩の側からではなく、自分の側から——すなわち、「適応」としての生ではなく、日本人として生まれて育ってきた自分自身の必然と、その「宿命」の自覚から——造形しようと努力した思想家でした。
だからこそ、そこで見出された「生き方」も、互いに響き合っていたのです。
あえて小林秀雄のターミノロジーを使って纏めれば、西田幾多郎にとって「純粋経験」(直観)とは、やはり、様々な「意匠」への囚われ——主客二元論における意味論——から逃れ出たときにのみ甦るものであり、また、そこで自覚されるものこそ、私の意識を超えて私を導く「生命」の力でした。とはいえ、その「生命」が運ぶ他者とのカップリングのかたちは、あらかじめ予測することはできません。そこで登場するのが九鬼周造における「運命」(宿命)の受容という構えでした。つまり、「運命」を主体的にコントロールするのではなく——そもそも、そんなことは不可能です——、「運命」を一種の諦念と共に受け入れること、そこで、ようやく、予測や打算(意味)から自由となった魂は、今、ここにおける一期一会の出会いに全身全霊で向き合うことができるようになるのです。
果たして、その他者との出会いによる生成変化を言葉によって辿り直そうとしたとき、小林秀雄が発見したもの、それが「批評」だったのです。「環境は人を作り人は環境を作る、斯く言わば弁証法的に統一された事実」を「宿命」と言うのなら、その「宿命」のかたちを描く営みにおいて、「批評の対象が己れであると他人〔環境〕であるとは一つの事であって二つの事でない」と言わねばならぬのは、もはや説明の必要はないでしょう。
が、ここで再び注意しておきたいのは、西田幾多郎から九鬼周造、そして小林秀雄にまで至る思考から浮かび上がってくるものこそ、あの「日本的性格」(九鬼)だったということです。そして、それは小林秀雄自身によっても、自覚されていたものでした。
昭和23(1948)年、戦後の第一声として発表した講演録「私の人生観」のなかで小林秀雄は、日本思想の中核にある仏教思想について、次のように述べていました。
「空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである、現実を様々に限定する様々な理解を空(むな)しくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴する事が出来るとする修練なのである。かくの如きものが、やがてわが国の芸術家の修練に通じ、貫道して自分に至ったと芭蕉は言うのだが、今日に至っても、貫道しているものはやはり貫道しているでありましょう。仏教によって養われた自然や人生に対する観照的態度、審美的態度は、意外に深く私達の心に滲透しているのであって、丁度雑沓(ざっとう)する群衆の中でふと孤独を感ずる様に、現代の環境のあわただしさの中で、ふと我に還るといった様な時に、私はよく、成る程と合点するのです。まるで遠い過去から通信を受けた様に感じます。決して私の趣味などではない。私はそうは思わぬ。正直に生きている日本人には、みんな経験がある筈だと思っています。」「私の人生観」『小林秀雄全作品17』新潮社
「真如」、すなわち、自然のあるがままの姿を感受し、それと一体化すること、その美を求める心は、正直に生きている日本人においては、「今日に至っても、貫道しているもの」だと小林は言います。そして、そんな過去からの通信を享けることを伝統感覚と言うのなら、やはり、ここでも小林は、自分の「直観」を導いている「伝統」の姿を見つめていたのだと言っていいでしょう。自我(エゴ)を押し出すのではなく、他者に照らし出された自己の「直観」を拾い上げること、そして、その喜びを数珠繋ぎに繋げていくこと、それこそが、私たち日本人の宗教観・芸術観であり、また、その生き方だと言うのです。
ただし、ここで注意しておきたいのは、この日本人の審美観が、決して世俗から遊離した場所で生きられるものではなかったという小林の指摘です。小林は、「実用主義というものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人」である宮本武蔵の人生観に触れつつ、そこで生きられていたのもまた、人生に対する分析的な目(見の目)ではなく、その「直観」において、己の運命を引き受けようとする倫理(観の目)だったと言うのです。
「〔宮本武蔵の「我事に於て後悔せず」という言葉は〕自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆噓の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢(こざか)しい方法は、寧(むし)ろ自己欺瞞(ぎまん)に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処(どこ)まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない、別な道が屹度(きっと)あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度(めでた)い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。」前掲書
要するに、人生のある部分を切り取ってきて、ここからが古い時代(悪い人生)で、ここからが新しい時代(善い人生)だと分析することはできないのだということです。いや、というより、そんなことをした瞬間、「伝統」の絆を切られてしまった「直観」はその有機性を失い、武蔵の「実用主義」(プラグマティズム)は、その強度(全体的な流れ)を失ってしまうでしょう。と同時に、その「直観」が希薄になった隙間にこそ、過去の全てを清算し、明日から新しい人生を生き直すのだなどという都合のいい空想=イデオロギーが入り込んでくることになるのです。が、それこそ、「いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日」という切りの無さを、つまり、過去に対する止め処ないルサンチマンと、その有機性を二度と取り戻すことのない自己喪失を招き寄せるだけでしょう。
しかし、だからこそ、「真に自己を知る」ためには、「その掛け替えのない命の持続感」を守らなくてはならないのです。己の「直観」が運ぶ他者とのカップリングにおいて、その偶然性と共に運命を引き受け、その関係のなかに自らの足場を築くこと、それ以外に、私たちは、私たちの内的な「命の持続感」を、その外的な「意味」による比較=断片化から守る術はないのです。それが、小林秀雄の倫理であり、また超越的な理念——イデアや一神教的な神——に頼らない、自己の一貫性の保ち方でもありました。果たして、日本人は、昭和戦前期に小林秀雄によって見出された「批評」において、その〈純粋経験=直観〉と〈運命=宿命〉とを取り結ぶ倫理を見出すことになったと言っていいでしょう。
しかし、大東亜戦争における敗戦は、再び、外来の「文明開化の論理」を、つまり、戦後民主主義や平和主義という「様々なる意匠」と同時に、「自己批判だとか自己清算だとか」いう都合のいい言葉を氾濫させることになります。もちろん、それに対して、戦後の保守思想家は各人各様の抵抗を試みていましたが、それも時代が下るに従って次第に弱々しいもの、悲劇的なものへと変容していかざるをえませんでした。
次回、最終回では、戦後における保守思想——福田恆存、三島由紀夫、江藤淳、西部邁の言葉——を回顧しつつ、近代日本の保守の運命を見定めておくことにしましょう。それは同時に、私たちの現在を見定める最も危機的=批評的な言葉でもあるはずです。