Ⅲ「伝統」の発見——昭和戦前期における小林秀雄
しかし、この「批評」の実践において、小林秀雄は困難に直面することになります。
というのも、「おのずから」な交わりを「みずから」言葉にしていく営みは、その起点に、他者との飛躍的で一回的な〝出会い〟を持たねばなりませんが、文芸ジャーナリズムは、そんな偶然的な出会いを待つ余裕を持たないからです。文芸ジャーナリズムが批評家に期待するのは、予想もつかぬ出会いなどではなく、日々量産される雑多な文芸作品を誰よりも上手く解釈し、文脈付け、社会的な意味を付与することでしかありません。しかも、そこで読まされる作品の多くが退屈なものだったとしたらどうでしょう。
デビューから5年後、早くも小林秀雄は、仕事への「疲労」を口にしていました。
「文芸時評というものが近頃書き難くってたまらぬ。一と口でひらったく言えば飽きたのである。いつまで経っても文芸時評の形式に変化がない。習慣、惰性というものは恐ろしいものである。誰も改良しようとする者がない。
〔中略〕月々の文壇的事件をとり上げてとやかく言う事に疲労を感じて来る。いい加減やっているうちに疲労を感じて来ない様な人は、少しどうかしているのだと僕は思う」「文芸時評に就いて」昭和10年1月、『小林秀雄全作品6』新潮社
ここから、小林秀雄の文芸ジャーナリズムからの退却と、真に一回的な出会いへの傾倒——つまり、ドストエフスキーや古典との付き合いがはじまることになります。
と同時に、その付き合いは小林秀雄に、己の「直観」を支える「民衆」と「伝統」との問題にも目を開かせることになりました。つまり、己の出会いを媒介する「直観」の跡を辿っていったとき、私たちは、「なぜ、横光利一ではなく、森鴎外なのか?」、「なぜ、ボードレールではなく、ドストエフスキーなのか」という問いに導かれると共に、己の「直観」を文脈づけている「伝統」としか呼びようのない力——小林自身がその中の一人として生きている「民衆」の力——に直面せざるを得なかったのだということです。
ロシアを代表する小説家・ドストエフスキー(1821年~1881年)提供:akg-images/アフロ
実際、最初のドストエフスキー論「『未成年』の独創性について」(昭和8(1933)年)から数えれば3年、長編評伝『ドストエフスキイの生活』の連載開始(昭和10(1965)年)から数えればその1年後の昭和11年(1936)年、小林秀雄は、近代人である自分を、森鴎外や谷崎潤一郎の言葉の方へと強く惹きつける力について、あるいは、アジアとヨーロッパのあいだ(ユーロ+アジア=ユーラシアの大地)で苦しみぬいた一人の作家ドストエフスキーに出会わせた力について考えるエッセイを発表していました。
「文学の伝統性と近代性」(昭和11(1936)年)のなかで、その一年以上前に書いた「新人Xへ」の文章を引きながら、小林秀雄は、次のように書くのです。
「僕は、こういう事を書いた。『先ず独断的な自分の直観力を設定して、これだけを信用する。作品にどんな企図がかくれていようが、どんな思想が盛られていようが、それは作者がただそんな気になっているものとして一切信用しない事にする。ただ出来栄(ば)えだけを嗅(か)ぎ分ける。物質の感覚が、或(あるい)は人と人とが実際に交渉する時の感動が、どんな程度に文章になっているか、そういうところだけを嗅ぎ分ける。するとそこに、消極的なものだが文学に対する社会の洒落気(しゃれけ)の無い制約性が得られる。』〔中略〕
社会の制約性は伝統の制約性に外(ほか)ならぬ。民衆とは伝統の権化(ごんげ)である。
僕は伝統主義者でも復古主義者でもない。何に還れ、彼(か)にに還れといわれてみたところで、僕等の還るところは現在しかないからだ。そして現在に於て何に還れといわれてみた処で自分自身に還る他はないからだ。こんなに簡単で而(しか)も動かせない事実はないのである」『小林秀雄全作品7』新潮社
まずここで注目すべきなのは、「伝統」を語っている小林秀雄が、それを自分の外にある何らかの権威(外的規準)によって規定するのではなく、飽くまで、今、ここで働く自分の内なる「直観」によって限定しようとする姿勢です。ただ、それは「様々なる意匠」の議論からすれば当然の話でしょう。もし、「伝統」を外的な基準によって測ってしまうのなら、「伝統」もまた、その視点によって相対的であることを免れません。
が、だからこそ小林は、「先ず独断的な自分の直観力を設定して、これだけを信用」して歩くと言うのです。そして、事後的に、その歩いた跡を振り返って驚くのです。何気なく歩いて来た道には、しかし一つの固有のメロディーラインが——九鬼周造の言葉を借りれば「日本的性格」が——クッキリと刻み込まれているのでした。とすれば、そのルールを事前に規定できないにも拘わらず、そこにはやはり、一つの統一的な力が働いていたと言うべきではないのか。それが、小林秀雄の言う「社会の洒落気の無い制約性」、要するに「伝統」の力であり、「民衆」が無意識に生きてきた日本人の規範意識でした。
しかし、それなら作品に対する「直観」がそうであったように、その「直観」を導き、それを限定している「伝統」もまた、この私にとっては「宿命」的なものだと言うべきではないでしょうか。ここから小林秀雄は、己の〈直観=伝統〉に耳を澄まし、その流れに沿って言葉を置きすえ、そのかたちを自覚する営みへと入っていくことになります。
戦前の日本が、日中戦争の泥沼から対米戦争へと向かってゆく昭和16(1941)年6月、小林秀雄は「伝統について」という短いエッセイを発表していました。
「習慣はわざわざ見付け出して、信ずるという様な必要は少しもないものだが、伝統は、見付け出して信じてはじめて現れるものだ。(中略)
伝統は、これを日に新たに救い出さなければ、ないものなのである。それは努力を要する仕事なのであり、従って危険や失敗を常に伴った。これからも常にそうだろう。少くとも、伝統を、そういうものとして考えている人が、伝統について、本当に考えている人なのである」『小林秀雄全作品14』新潮社
ここで「伝統」と対比されている「習慣」が、単におのずから成った無意識的な行為の集積なのだとすれば、「伝統」とは、おのずから働く力に言葉をあてがい、それを引き受け、その流れにみずから従ったときにのみ現れてくる有機的なリズム、つまり、己を超えて己を導く力の自覚的な表現だと言えます。とすれば、この「伝統」を日に新たに救い出す「批評」とは、必然的に次の二つの倫理を身に引き寄せることになるでしょう。
すなわち、一つは、「伝統」を無視して唱えられる外的イデオロギーの拒絶=批判であり、もう一つは、内的な直観に適切なかたちを与えるための具体的な努力=描写です。
実際、日中戦争中に小林秀雄が書いた「学者と官僚」(昭和14(1939)年)や、「イデオロギイの問題」 (同年)や、「処世家の理論」(昭和15(1935)年)などの批評文は、当時、マルクス主義に代わって登場してきた外的なイデオロギー、つまり、己の〈直観=伝統〉を隠す日本主義的な「意匠」——東亜協同体論から大東亜共栄圏思想に至るまで——に対する抵抗を示すものでした。が、それと同時に小林秀雄が力を入れて書き進めていたのが、「ドストエフスキイ・ノート」と呼ばれるドストエフスキーの作品論や、「当麻」「無常といふ事」「西行」(昭和17(1942)年)などの日本の古典論だったのです。要するに、一方では、「直観」を曇らせるその時々の「意匠」を批判しながら、他方では、おのずからの直観に従って、そのリズムをみずから模倣=ミメーシスすること、小林秀雄における「批評」の営みは、この二つの実践に跨って存在していたのでした。
これが、大東亜戦争という近代日本史上最大の「危機」において、小林秀雄が示した「批評」の倫理だったのです。それが有効だったのか否かという問いは、政治的には意味があるかもしれませんが、文学的には意味がありません。「人事を尽くして天命を待つ」のが人間の生き方なのだとすれば、小林秀雄もまた、己の「人事」を尽くして生きただけのことです。