結論から先に言ってしまえば、それは、「自由」そのものを求める態度と、「自由の条件」を思考しようとする態度、その差が「自由主義者」と「保守思想家」とを分けているものだと考えていいでしょう。保守は確かに「自由」を擁護します。が、それ以上に、その「自由」を可能にしている条件に目を向け、その希少性をこそ守ろうとするのです。
ただ、そういうと、自由主義者だって、自由の条件である「法の下の平等」や「議会制民主主義」を自覚し、守ろうとしているではないかと言われそうですが、実は、そこが少しだけ違うのです。自由主義者が「自由・平等・友愛」といった大きな理念(未完のプロジェクト=未来)を語りながら、その未来的価値を訴えるところで、保守は、むしろ「法の下の平等」や「議会制民主主義」が成り立つ前提、つまり、「法」や「議会」などの概念が機能する条件、その歴史的前提にまで遡行し、また、それを自覚しようとするのです。
かくして保守思想は、近代的諸制度の基底に、われわれに与えられている固有の条件——言葉や文化や伝統など——を見出すことになります。要するに、長い歴史の試練に晒されながらかろうじて残されてきた文化のなかに、私たちの「自然」を見出し、そのなかに、取り換え不可能な「伝統」の希少性を見出すのです。そこに、無条件に「自由」を語るリベラリズムと、おのれの自然のなかに「自由の条件」を見出し、それを守ろうとする保守との、似ているようでいて、しかし、決定的に違う志向性が見出されることになります。
Ⅱ 「調和」への感性——「変革の理念」と「反動の観念」のあいだで
では「自由の条件」とは、どのようにして見出されるのでしょうか?
実は、そこに保守の難しさが潜んでいます。というのも、「自由の条件」とは、その時と所と立場によって違ってきてしまうものだからです。何を「自由」の根・幹(取り換え不可能な核)と見做(みな)し、何を剪定(せんてい)すべき枝・葉(取り換え可能な部分)と見做すのか、それが、その時代と地域、さらには、目の前の状況によって変わってきてしまうのです。
しかし、それなら「保守」を一義的に定義することは不可能なのでしょうか。
たとえば、政治学者の宇野重規氏は、その著書である『保守主義とは何か—反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)という本のなかで、次のような疑問を呈していました(ちなみに、この本は、客観的立場から、つまり著者自身の思想としてではなく、政治思想の研究者・専門家の立場から書かれた「保守」についての一般的な入門書です)。
それでは「保守」とは何かとなると、実はかなり怪しい。①男女平等やジェンダーフリー(性役割をめぐる固定的通念からの自由を求めること)の思想に批判的な人々を指すこともあれば、②自国を愛し、外国人に対して警戒的な態度を意味することもある。③時にアメリカでのように、「小さな政府」を目指す立場を「保守」と呼ぶことさえある。結局のところ「保守」といっても、「自分はリベラル(あるいは「左翼」)ではない」という、消極的な意味合いしかもたないのかもしれない。(『保守主義とは何か』ⅰ~ⅱ頁、①、②、③は引用者補足)
宇野氏が指摘するように、「保守」は、たしかに積極的=一義的定義には馴染みにくいのかもしれません。ただ、その消極性にこそ「保守」の可能性が隠れているのだとしたらどうでしょうか。以下、詳しく、①~③のトピックについて見ておくことにしましょう。
まず、①「男女平等やジェンダーフリーの思想に批判的」な態度ですが、「自然」から与えられた「性」——それがいかなる性であろうが——を自己の基礎に見出し、それを尊重し、それに従うという態度において、たしかに保守は過激なジェンダーフリーの思想に抵抗します。ジェンダーフリー論者は、男女の「ジェンダー」は人為的に作られた制度であり、それゆえ、それを肯定するのは、制度に寄り掛かった権威的で抑圧的な態度(差別)だと言いたいのでしょう。が、それを言うなら、ジェンダーフリー論だって同じことです。それは、一部の人々によって意識的に唱えられた現状変革論であって、それ以外の人たち——大多数の生活者——にとって、それが抑圧的に機能することだって十分に考えられるのです。
だからこそ、保守的人間にとって重要なのは、制度が人為的・権威的か否かという点ではなくて——全ての制度は人為的かつ権威的です——、その制度が、歴史的(垂直的)、社会的(水平的)な関係性のなかで「調和」しているのか否かという点、さらに言うなら、一つの自由が、他の自由——過去をより多く生きている人間の自由や、無意識の慣習を生きている人間の自由——と折り合っているのか否かという点なのです。要するに、過去からもたらされた習慣や秩序において、そこに異常な不整合や不条理がない限り、それを是(ぜ)とし、むしろ、それを恣意的に変えることに抵抗すること、それが保守の基本的態度となります。
そして、これは、②の「自国を愛し、外国人に対して警戒的な態度」を取ることにしても、③の「『小さな政府』を目指す立場」にしても、基本は同じことだと言えます。
➁の「自国愛」に関してですが、保守は、それを自然から与えられた土地との関係、その土地に根差して暮らす人々の生活から湧き上がってくる自然な感情——愛着と親しみ——として肯定します。が、だとすれば、それが、土地に根付いている者(すでに土地と調和している者)と、土地に根付いていない者(調和できるかどうか分からない者)との区別や、外から来る外国人に対する「警戒的な態度」を導いたとしても何の不思議もありません。