しかし、だとすれば、マンハイムが示唆するように、「保守主義」の基底には、一つの「生の哲学」が見出せると言うべきではないでしょうか。このことは、後で詳しく検討するつもりですが、予(あらかじ)め私の結論を述べておけば、この「生の哲学」を引き受けている限りで、まさに「保守思想」は生きた思想なのであり、その可能性を追究すべき現代思想でもあるのです。
たとえば、先ほど述べた「変革の理念」(未来の夢想)や「反動の観念」(過去への執着)に対する保守の違和感=抵抗のことを想い出してください。「変革の理念」にしろ、「反動の理念」にしろ、なるほど、それらは一見「動き」を促しているように見えます。が、しかし、それらの理念が理念でしかない限り、実は、それらは現実において経験できるものではありません。なるほど、彼らは、その理念を「いつか経験できるもの(未来で出会えるもの)」なのだと言い張りますが、その経験が「いつか」でしかない限り、それを、今ここで確かめることはできないのです。とすれば、それらの「変革の理念」や「反動の観念」は、文字通り、今ここにはないもの、すなわち、今ここを生きる私たちの「生」に対する否定やルサンチマンを原動力にしていることになります。そして、保守が最も嫌うものこそ、ほかならぬ、この「生」に対する憎しみ、そこに生み出される否定の言葉たちなのです。動いている「生」を、静止した理念によって説明し、その全体を見透かそうとする傲慢、また、その延長線上に現れてくる、近代主義、合理主義、進歩主義、全体主義、それらの驕(おご)り高ぶりを批判し、その目的論に抵抗すること。それが、この与えられた歴史を肯定し、そこに一回的な「生」の味わいを取り戻そうとする営みと並んで、保守の大事な仕事の一つなのです。
しかし、話を急ぎすぎてはなりません。
今回は、まず、「保守思想」の大前提について述べておきました。が、次回は、少し歴史的な話も交えつつ、もう少し基礎的な話(序論)を続けておくことにしましょう。その上で、本論は、次第に「保守」の具体的相貌に迫っていきたいと考えています。近代保守思想の父であるエドマンド・バークや、その「生の哲学」を基礎づけている現代思想、さらには、小林秀雄や福田恆存の思想などについても詳しく見ていければと考えています。