「明らかにここでは、『伝統主義的』ということによって、すべての人間のなかに多かれ少なかれはたらいている形式心理的本性が考えられるのであるが、しかし『保守主義的に行為する』とは、一つの客観的に存在する構造関連の意味における行為を意味する。政治的な保守主義的行為はそれぞれの時期における行為を意味するのであって、その特性をあらかじめ確定することはまったくできない。これに反し、ある所与の事態において伝統主義的反応がいかに現われるかは、『伝統主義的態度一般』の形式的規定からたちどころに算定できる。(中略)しかし、保守主義者もしくは政治的保守主義の意味においてある時代に行為する者が、いかなる態度をとるかは、当該の国と当該時期における「保守主義的運動」の特質と構造との認識にもとづいてはじめて大略のことが答えられる。(中略)『保守主義的に行為する』ということが単なる形式的・反応的行為をいうのではなく、内容的にも形式的にもつねに十分に歴史的に性格づけることのできる(たとえ特定個人に接近する以前にそれ自体としての運命をもちえたにしても)思考・行為様式への意識的または無意識的な自己定位を意味することは、すでにきわめて明白である。」(『保守主義的思考』、森博訳、ちくま学芸文庫)
ここで言われていることで、重要なことは、次の二点です。
一つは、「伝統主義」は形式的に規定できるが、「保守主義」はそうはいかないということです。マンハイムは、時代の変化=変革に対して脊髄反射的に拒絶反応を示すのが「伝統主義」だとすれば、「保守主義」は、むしろ、その時と所と立場によって——「当該の国と当該時期」によって——柔軟に対処するところにその特徴があると言うのです。
そして、二つめは、これと関係することですが、だからこそ「保守主義」において重要なのは、「構造関連の意味における行為」なのだという指摘です。先に触れた表現で言い換えれば、その行為が、目の前の社会に対して「調和」をもたらすことができるのか否か、それが「保守主義」にとっては決定的な行為の基準(クライテリオン)だということです。
ところで、ここで注意しておきたいのが、この「構造関連」(Strukturzusammenhang)という言葉です。この言葉は、後にマルティン・ハイデガー(1889~1967)の解釈学にも影響を与えたとされる「生の哲学者」=ヴィルヘルム・ディルタイ(1833~1911)が用いた重要概念の一つですが、ディルタイによれば、それこそが、私たちの心的体験=生の体験の基底にあるものだとされていました。過去についての想起と、未来に対する展望とを同時に含みつつ、それを現在目の前にある対象において時間的=構造的に了解していく営み、それが、私たち人間の「生の過程」だと言うのです。単なる外部刺激(入力)とその反応(出力)の総計としての人間(≒機械)ではなく、外部刺激に対して絶えざる解釈を施しながら、環境に適応しようと行為へと踏み出していく人間(心的生命)、そんな力動的で生成的な人間像、それがディルタイの「生の哲学」の中心にあるイメージなのです。