さらに、③の「小さな政府」への志向にしても、コミュニズムやファシズムのような全体主義の暴力(個人と社会の調和を乱す理念)に対する抵抗、あるいは、個人の努力の結果として得た所有物を、歴史も言葉も共有しない赤の他人(共同性を持たない移民たち)に分配しようとするアメリカ連邦政府の巨大な権力(土地との調和を乱す力)に対して発された言葉として考えれば、それも至って自然な志向性だと言えるでしょう。実際、「全体主義」が吹き荒れる第二次世界大戦前、「小さな政府」を言ったフリードリヒ・ハイエク(1899~1992)は、もちろん、何でもありのアナーキーを目指していたわけではなく、ヨーロッパの「自生的秩序」(自然に醸成された秩序)による〈調和=自由〉をこそ考えていた経済思想家なのです。
しかし、ここで注意したいのは、だからといって保守は、男/女の区別や、自国愛や、外国人への警戒心や、小さな政府志向に囚われることも嫌ってきたという事実です。言い方を換えれば、保守は、それらの観念が行き過ぎることを是とはしないのです。何にしても行き過ぎを警戒し、そこに不調和の兆しを読み取る力、それが保守の平衡感覚なのです。
たとえば、ジェンダーフリー批判が行き過ぎると、それは「性役割」を固定化し、その役割を是が非でも守り通そうとする単なる陋習(ろうしゅう)=固定観念と化してしまいます。しかし、社会的状況の変化によって「性役割」は当然変わっていくことはあるし、それは実際、変わってきたのです。にもかかわらず、人々を一定の観念にしばりつけてしまえば、社会はその生命力を失って、むしろ、男女の「調和」は崩されてしまうことにもなりかねません。
そして、それは自国愛や外国人への警戒心にしても同じことです。それらの観念が行き過ぎてしまえば、夜郎自大(やろうじだい)な自己絶対化(日本主義・偉大な戦前の賛美)や、他者に対する固定観念(嫌韓・嫌中)を呼び寄せてしまい、結果として、それが他者に対する距離感覚を麻痺させてしまうことにもなるでしょう。しかし、そうなれば、他者と折り合うための道は見失われてしまうわけで、結局、社会の「調和」は遠ざかってしまうことになります。
そして、「小さな政府」の行き過ぎも危険です。それが観念化してしまうと、過激なリバタリアニズム(自由至上主義)や、ネオリベラリズム(新自由主義)、あるいは、市場原理主義などといったイデオロギーを呼び寄せてしまい、最終的には「国家」という概念、人間共同体に「調和」をもたらすために不可欠な概念さえ見失ってしまいかねません——たしかに国家は戦争をしますし、社会・経済を混乱させることもありますが、それに対処し、平和をもたらすのもまた国家なのです——。「政府」は、時と所と立場に従って適切な大きさが必要なのであって、いつだって「小さな政府」がいいなどということはあり得ません。
ことほどさように、保守とは、宇野重規氏の言う「消極的な意味合い」——要するに積極的ではない姿勢——においてこそ、実は、過激で恣意的な「変革の理念」(ロマン主義的=左翼的理念)に対する抵抗と、「反動の観念」(右翼的観念)に対する抵抗の姿勢を、両者のあいだにあって人々の「調和」をこそ志向する思想の可能性を見出すことになるのです。私の好きなウィリアム・ジェイムズ(1842~1910)の言葉に、「新しい真理とは(中略)、最小の動揺と最大の連続性とを与えるようにして旧い意見を新しい事実にめあわせる。一つの理論が真であるかどうかということは、その理論がかかる『最大と最小の問題』をどの程度に解決しえているかに比例して計られる」(『プラグマティズム』、桝田啓三郎訳、岩波文庫)というのがありますが、まさしく、保守が見出す〈真理=調和〉も、この「最小の動揺と最大の連続性」の感覚によって見出されるものだと言っていいでしょう。
要するに、「保守思想」とは、生成変化する自然を前提としながら、そのなかで、ともすれば「変革の理念」(未来の夢想)に呑まれていってしまう人々と、その反対に、「反動の観念」(過去への執着)へと傾いていってしまう人々に対して、私たちの「慣れ親しみ」という経験的事実に錘(おもり)を垂らすことを勧め、それによって未来と過去とのあいだでの「平衡」を見出そうとする思想、その「調和」の道を模索しようとする思想だということです。
Ⅲ 一つの「生の哲学」として——カール・マンハイムの「保守主義」論
とはいえ、そんなのはお前の意見であって、決して客観的定義ではないではないかという向きもあるでしょうから、最後に、それに対しても答えておくことにしましょう。
なるほど、これまで語ってきたことは、たしかに私の考える「保守思想、その可能性の中心」といった傾向がないとは言えません。
たとえば、二〇世紀に「知識社会学」(知識の社会拘束性を強調し、思想と時代との関係を歴史的に研究しようとした社会学)を提唱したことで知られる社会学者のカール・マンハイム(1893~1947)は、「保守主義」を「伝統主義」から区別して次のように述べていました。いかにもの学者の文章で、少々硬いのですが引いておきましょう。