明治近代化以降、文明開化=西洋化によって近代化を推し進めてきた日本は、日清・日露戦争に勝利し、資本主義が全面化してくる明治末期から、徐々にその社会的バランスを崩しはじめ、それに対して本格的な左翼(東大新人会/大正七年設立)と、右翼(猶存社/大正八年設立)とが登場しはじめるのが、特に第一次世界大戦が終わった後の大正中期のことでした。そして、そこに、関東大震災における故郷喪失と、度重なる恐慌による経済危機とが重なったとき、日本は、社会変革の理念を掲げるイデオロギーの時代——つまり、左翼のマルクス主義と、右翼の昭和維新論が一世を風靡する「昭和」を迎えることになるのです。
が、そんな不安と混乱の時代、それらのイデオロギーの悉(ことごと)くを「様々なる意匠」として突き放す批評家が遅れて登場してきます。近代批評の祖と呼ばれる小林秀雄(一九〇二~一九八三)です。
ここでは、小林秀雄の批評の方法を簡単に確認しておくため、デビューから七年後に書かれた、小林秀雄の「らしさ」が最も表れているエッセイの一節を引いておきましょう。
「先ず独断的な自分の直感力を設定して、これだけを信用する。ただ出来栄えだけを嗅ぎ分ける。物質の感覚が、或は人と人とが実際に交渉する時の感動が、どんな程度に文章になっているか、そういうところだけを嗅ぎ分ける。するとそこに、消極的なものだが文学に対する社会の洒落気の無い制約性が得られる」〔中略〕社会の制約性は伝統の制約性に外ならぬ。民衆とは伝統の権化である。僕は伝統主義者でも復古主義者でもない。何に還れ、彼にに還れといわれてみたところで、僕等の還るところは現在しかないからだ。そして現在に於て何に還れといわれてみた処で自分自身に還る他はないからだ。こんなに簡単で而も動かせない事実はないのである。(「文学の伝統性と近代性」昭和十一年(一九三六年)初出、『小林秀雄全作品7』(新潮社)所収、「 」内は、小林の「新人Xへ」の自己引用部分)
ここで言われる「直感力」とは、本論の文脈におき直せば、〈調和を感じ取る力〉だと言っていいでしょう。作品を前にして、その調和(自然)と不調和(不自然)とを嗅ぎ分ける「直感力」、それこそが、長い歴史の中で知らぬうちに育まれ、他者との関わりのなかで無意識に培われてきた美的感性、要するに、「伝統の制約性」にほかならない、と小林は言うのです。
ただし、ここで急いで付け足しておかなければならないのは、「社会の制約性」と言われているからといって、小林の語る「伝統」が、自分の「外」に見出せるような規則や掟(伝統とは、こういうものだ! といったような定義)ではないということです。もし、それが、自分の外側にある「規則」(定義)なら、それを見出すために、わざわざ「直感」を介して作品の出来栄えを嗅ぎ分ける必要はないでしょう。にもかかわらず、それが「制約」として語られなければならないのは、その「伝統」が、私たちの意識的な操作(自由)を超えて作用しているように感じられるからなのです。あるものに調和を感じ、あるものに不調和を感じてしまう、その心の動き自体が——最小の動揺と最大の連続性を感受するその感受性自体が——、ある文脈的必然性(制約)においてのみ機能している心の働きなのだとすれば、伝統感覚とは、要するに、単なる過去の記憶でも、また目指すべき理念でもなく、〈私たちの内側で具体的に働いている他者の力である〉、小林秀雄はそう言いたいのです。
だからこそ小林は、私たちが還るところは、その「力」が働いている、今、現在しかないのであり、その「力」を生きている私たち自身以外にはないのだと語るのです。自分自身の「直感」に素直で正直であること、それが小林秀雄の「批評」の方法でした。
Ⅱ 近代合理主義の起源――「実践知」から切り離された「技術知」
では、保守思想は、「改革主義に対して後手を引くこと」において何を守ろうとしてきたのでしょうか。あるいは、こう言った方が正確かもしれません、そのイデオロギーに頼らない姿勢において、保守は何を主張し、どのような思想的傾向に抵抗してきたのかと。
それを近代史の文脈で考えようとしたとき、まず手掛かりになるのは、またしても福田恆存の言葉です。その主著『人間・この劇的なるもの』(昭和三十一年)のなかで福田は、有機的全体性に包まれた「真の意味における自由」——それを福田は「劇的なるもの」「宿命感」、あるいは「全体のなかにあって、適切な位置を占める能力」と言いますが——を失った人々のルサンチマンが呼び出す「自由という観念」について、次にように書いていました。
人が自由という観念におもいつくのは、安定した勝利感のうちにおいてではない。〔中略〕つねに人は、自分がなにものかに欠けており、全体から除(の)けものにされているという自覚によって、はじめて自由や個性に想到したのである。が、このなにものかの欠如感が、ただちに安易に転化され、弱者の眼には最高の美徳であるかのごとく映じはじめるのだ。
最初は、誰も全体からの離脱に不安を感じる。つぎに自分を除けものにする全体にたいして、不満をいだく。さらに、かれは全体の批判者として立ち、個性の名において全体を否定する。脱落者から優越者への道は、あらゆる心理過程の最短距離を走る。が、ひとたびこの里程標を越えると、かれは自己の優越性を保持するため、際限もなく優越者でありつづけねばならなくなる。〔中略〕自由の出発点に立った以上、私たちは永遠に全体の批判者であらねばならぬ。こうして私たちは孤独になるか、特権階級の座席に坐りこむかせねばならなくなるのだ。(『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫))
この描写は、そのまま、先述した〈先に敵を発見した〉革新派の人々の態度とぴたりと一致するでしょう。人が、殊更に「自由」を強調し始めるのは、「安定した勝利感のうち」にではなく、逆に「全体から除けものにされている」ことに対する弱者のルサンチマンのうちにおいてであり、それゆえに彼らは、自らの「孤立」を、他者に対する「優越性」へと反転させるために、特定のイデオロギーを編み出さざるを得なかったのだと言うのです。
ここには、ニーチェが語った〝ルサンチマンとしてのキリスト教道徳〟(『道徳の系譜学』)と似た構造が語られていますが、実際、革新派のイデオロギーのほとんどは、今、ここで生きられている「生」の肯定ではなく、現状への不満と否定を、そしてさらに、その否定の先で見出される「自由という観念」(ここではないどこかの理想)を孕み込むものでした。
(註1)
このオークショットの言う「実践知」に関しては、それがハイエクの知識論や、マイケル・ポランニーの「暗黙知」の議論と重なることが度々指摘されてきましたが、さらに興味深いのは、その「実践知」の擁護と同じ論点が、数学的知識(技術知)を中心化したデカルトの分析的認識論(合理主義)に対する、十七世紀のジャンバッティスタ・ヴィーコ(イタリアの王立ナポリ大学の修辞学・雄弁術の教授・一六六八~一七七四)による遅れた批判においても見い出せるという点です。ヴィーコは、真偽の判断に関わる分析的技術としての「クリティカ」(技術知)と、論拠ないしは論点を発見する常識力(コモン・センス)としての「トピカ」(実践知)とを区別しながら、後者の力を、歴史のなかで育まれる「共通感覚(センスス・コムーニス)」と結びつけていましたが、この議論は、近代以降の進歩派の認識論に対する保守派の認識論として整理し直すことができます。ここでは指摘に留めますが、その内実については、本論のなかで触れるチャンスがあれば、触れたいと考えています。