Ⅰ 改革主義に対して後手を引くこと——「見とおし」に対する抵抗
保守思想入門の初回は、まさに最初のステップとして、私たちに内在している調和感覚を取り上げながら、それが「生の哲学」(ディルタイ)と態度を共有している点について注意を促しておきました。そして、それゆえに保守が、過激で恣意的な「変革の理念」(ロマン主義的=左翼的理念)に対する抵抗と、また、それに伴う「反動の観念」(伝統主義=右翼的観念)に対する抵抗とを同時に用意しつつ、自らの「生」における「自由の条件」を把握しようと努める営みであるということについても指摘しておきました。要するに、私たちの〈調和=自由〉を可能にしている生活世界の基盤を描き出しながら、それを引き受け、守ろうとする態度、それが保守の態度だということです。
しかし、そうなると、保守思想は、私たちの生活の調和が乱され、その条件が見失われそうになった危機において現れてくる一方で、逆に、その調和が生きられている限りは、表立って主張されることの少ない思想だと言うこともできるのかもしれません。
実際、その事実は、思想史の経緯によっても確かめられます。
これはよく誤解される点ですが、まず最初に、保守主義という確固とした思想があって、それを否定するものとして革新派が出てきたなどということはありません。その反対です。まず何かしらの理由で社会の調和が崩され、それに不安を覚えた一部の人間が現状変革論を掲げて登場し、その理念的な改革論によって更なる混乱がもたらされることを懸念して保守派が登場してくる……、思想史は常に、このような順序で展開されてきたのです。
そして、おそらくその経緯について、最も正確に言葉にしていたのは福田恆存(一九一二年~一九九四年)でした。
最初の自己意識は、言ひかへれば自分を遮る障碍物の発見は、まづ現状不満派に生じたのである。革新派の方が最初に仕来りや掟のうちに、そしてそれを守る人たちのうちに、自分の「敵」を発見した。
先に自己を意識し「敵」を発見した方が、自分と対象との関係を、世界や歴史の中で自分の果す役割を、先んじて規定し説明しなければならない。社会から閉めだされた自分を弁解し、真理は自分の側にあることを証明して見せなければならない。かうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の発生を見るのである。保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに気づく。「敵」に攻撃されて始めて自分を敵視する「敵」の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。したがつて、保守主義はイデオロギーとして最初から遅れをとつている。改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる。それは本来、消極的、反動的であるべきものであつて、積極的にその先廻りをすべきではない。(「私の保守主義観」昭和三十四年(一九五九年)初出、『保守とは何か』(文春学藝ライブラリー)所収)
もし、革新派に敵視された人が、そのルサンチマンから「積極的にその先廻り」をはじめてしまうと、その自意識自体がイデオロギーを呼び出してしまうことにもなりかねず、そうなると保守派は、そのうちに硬直した「観念右翼」へと堕していってしまうでしょう。
しかし、だからこそ福田は次のように書くことを忘れなかったのです、「保守的な態度といふものはあつても、保守主義などといふものはありえない」、「保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではない」、「無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ素直で正直であればよい」(前掲書)のだと。ここには、改革主義に対してつねに〝後手を引くように〟宿命づけられている保守派の——つまり、積極的な大義名分に依存することを嫌う保守派の——ある意味最も困難な倫理があります。
とはいえ、この決して先廻りをしない姿勢、大義名分に依存せずに、他者を態度で説得しようとする姿勢は、保守思想を担ってきた人々において常に示されてきた倫理でした。
これは後に詳しく述べることになると思いますが、たとえば、社会契約論などで理論武装をしたフランス革命の支持者に対して、文字通り後手を引くようにして書かれたエドマンド・バークの『フランス革命についての省察』(一七九〇年)。あるいは、十九世紀の急進的な唯物論と無神論に対する応答として書かれたG・K・チェスタトンの『正統とは何か』(一九〇八年)。そして、これまたイデオロギーで理論武装をした二十世紀の全体主義——マルクス主義、コミュニズム、ファシズム、ナチズムなど——に対して、文字通り遅れをとって書かれたマイケル・オークショットの「政治における合理主義」(一九四七年)や、T・S・エリオットの『文化の定義のための覚書』(一九四八年)など、それらの著作は、近代の合理主義者たちが積極的に語る未来への「見とおし」に対する疑念を示すと同時に、さらに、「主体である自己についても、すべてが見出されてゐるといふ観念をしりぞけ、自分の知らぬ自分といふもの」(福田恆存前掲書)を尊重するために書かれたものでした。
ところで、この改革主義・進歩主義に対する遅れた批判や、「自分の知らぬ自分」の擁護という主題は、近代日本においては主に文学者たち(夏目漱石、森鴎外、永井荷風など)によって担われた主題でした——その理由については、近代日本について論じる箇所で改めて述べたいと思います——。が、それが「小説」によってではなく、「批評」的言語によって自覚的に担われるまでには、「昭和」という危機の時代を待つ必要がありました。
(註1)
このオークショットの言う「実践知」に関しては、それがハイエクの知識論や、マイケル・ポランニーの「暗黙知」の議論と重なることが度々指摘されてきましたが、さらに興味深いのは、その「実践知」の擁護と同じ論点が、数学的知識(技術知)を中心化したデカルトの分析的認識論(合理主義)に対する、十七世紀のジャンバッティスタ・ヴィーコ(イタリアの王立ナポリ大学の修辞学・雄弁術の教授・一六六八~一七七四)による遅れた批判においても見い出せるという点です。ヴィーコは、真偽の判断に関わる分析的技術としての「クリティカ」(技術知)と、論拠ないしは論点を発見する常識力(コモン・センス)としての「トピカ」(実践知)とを区別しながら、後者の力を、歴史のなかで育まれる「共通感覚(センスス・コムーニス)」と結びつけていましたが、この議論は、近代以降の進歩派の認識論に対する保守派の認識論として整理し直すことができます。ここでは指摘に留めますが、その内実については、本論のなかで触れるチャンスがあれば、触れたいと考えています。