何よりもまず注目すべきなのは、本来、自由で平等であるはずの人間を、様々な鎖(=他者との外的な関係)につないでいる既存の社会(=制度)に対するルソーのルサンチマンです。このルサンチマンが、まず現状からの解放(=自由)をルソーに夢見させるのです。
そして、そこからルソーは、既存の制度の全てを否定(=革命)して、相互に自由で平等な「個人」の契約によって新しく社会を立ち上げようと言います。スイスの哲学者であるジャン・スタロバンスキー(1920~2019年)のルソー論『ルソー 透明と障害』の驥尾(きび)に付して言うなら、まさにルソーは、人間のエゴイズムによって汚された「自然」を浄化するために、現状を覆う幾多の「障害」を打ち毀(こわ)し、その先に、何にも媒介されない「透明」なコミュニケーションを回復しようと言うのです。
しかしそれなら、その契約によって、新たに創設された国家が、個々人の「自由」を疎外することはないのでしょうか? あるいは、コミュニケーションの透明性を毀損することはないのでしょうか?
ルソーは、あり得ないと言います。というのも、ここで結ばれた契約こそは、個々人の「自由と平等」を国家の力によって守るという約束にほかならなかったからです。
ただ、それでも疑問は残ります。契約によって打ち立てられた「自由と平等」が、アナーキーな「自由と平等」(ホッブスの自然状態)と違うと言うのなら、そこには当然、理想的な「自由と平等」のイメージが、個人の欲望と集団の欲望とが矛盾せず一致し、部分である個人が全体である社会に溶け込んでいる統合のイメージが存在するはずだからです。
では、何が統合で、何が不統合なのか、その正しい統合のイメージを判断し、そこへと個人と社会を導く主体とは一体誰なのでしょうか?
そのとき、ルソーが口にするのが、「一般意志」というマジックワードでした。
「もし社会契約から、その本質的でないものを取りのぞくと、それは次の言葉に帰着することがわかるだろう。『われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとるのだ。』」
「従って、社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何びとにせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる。そして、この約束だけが他の約束に効力を与えうるのである。このことは、(市民は)自由であるように強制される、ということ以外のいかなることをも意味していない。」『社会契約論』前掲書
ここで言われている「一般意志」は、個々人の「特殊意志」でもなければ、それらを足し合わせた「全体意志」でもありません。もし、「一般意志」が、そのような〝量〟に従った概念でしかないのなら、たとえば、多数決によって「自由」を放棄することが決められてしまえば(=正しくない統合の形が選ばれてしまえば)、「(市民は)自由であるように強制される」ことができなくなってしまうからです。
では、私たちが従うべき「一般意志」とは何なのでしょうか?
ルソーの言葉を借りれば、それは、個々のエゴを離れて、社会全体の「共通の利害」を考えることのできる「理性」、つまり、「公共の決議に公平の性格をあたえる利益〔部分〕と正義〔全体〕とのすばらしい調和」を実現することのできる法=主体です。
しかし、それだけでは、ルソーが何を「一般意志」と見做しているのか、その具体的なイメージはハッキリしません。いや、それはルソーにさえ分かっていなかったと言うべきなのかもしれません。その証拠に、「一般意志」の内実を語りながらルソーは、それを「意志を理性に一致させる」ことのできる「導き手」だの、「すぐれた知性」「偉大な立法者」だの、「神々」「天才」「賢者たち」だのという仰々しい言葉で飾り立てるしかなかったのです。つまり、ルソーは、「正しい者は、正しいのだ」と強弁しているにすぎないのです。
しかし、「一般意志」が、経験によっては確かめられない抽象概念だったからこそ、かえって未来を語る革命家には都合が良かったとも言えます。その後に、「一般意志」という言葉は、フランス人権宣言に採り入れられ、「個人」の自由を、「全体」の秩序へと矛盾なく接合するためのマジックワードとして、つまり〝ここではないどこか〟を指し示すデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)として機能し始めることになるのです。
Ⅱ ジャコバン独裁を導いた「一般意志」――フランス革命の暴力と破壊
事実、フランス革命が過激化していくのは、フランス人権宣言に、「法は一般意志の表明である」(第六条)という条文が明記されて以降のことでした。
バスティーユ牢獄襲撃時点では、まだ単なる民衆暴動の域を出るものではなかったフランス革命は、しかし、①人権宣言の採択(1789年8月)から、②国王ルイ十六世の処刑(1793年1月)、そして、③ジャコバン派による革命政府の樹立(1793年6月)に至るまでの流れのなかで、次第に、その「革命」の姿を顕わしていきます。以上の三点に着目しながら、簡単に、「革命」のあらましを描いておくことにしましょう。
まず、暴動から革命への転機は、バスティーユ牢獄襲撃事件から約一ヵ月後の1789年8月に発された「封建的特権の廃止」(4日)と、「人権宣言」(26日)によって作られました。