これは現代の「左翼」(ポリティカル・コレクトネスを含む)にも通じるところがありますが、いずれにしろ重要なのは、やはり、ここでも「一般意志」の理念が響いていることです。ロべスピエールは、ジャコバン派の支配について、それは「特定の人間」(特殊意志)によるものではなく、「普遍的な理性」によるものであり、その限りで、「理性の声を聞こうとするあらゆる人びとの支配」であり、「自由の大義をつねに擁護したあらゆる市民の支配」なのだと言います。しかし、そうなると、ジャコバン派に対する批判は、自動的に、自由と平等を実現する「一般意志」への裏切りと見做されることになり、革命政府への批判者は、「人民の敵」として粛清されなければならないということにもなってしまいます。
なるほど、それは確かに「恐怖政治」でしょう。が、「恐怖政治」は、それ以上に、「理性」による人民の導きであり、さらには、政府における「徳」の発露であり、過去の不条理な圧政に対する来るべき「自由」の専制であり、個々人の自由意志を国民全体の自由意志へと媒介するための共和国創設の「正義」でもあるのです。
果たして、1793年6月から1794年7月までのジャコバン独裁の約一年間、反革命分子として逮捕・収監された人々は約50万人、うち死亡者は3万5千~4万人にのぼり、死刑判決によって処刑されたのは約1万6千人だったと言われます。これはほとんど近代戦争と同じ規模の死者数ですが(日清戦争の日本軍の死者は約1万4千人程度だったと言われています)、まさしくフランス革命の暴力と破壊の凄まじさを示しているでしょう。
と同時に、それは、ほかならぬ「自由」と「理性」による暴力と破壊だったのです。これが、国民議会の左側に座った〈左翼=ジャコバン派〉の政治でした。
Ⅲ「左翼」の系譜――フランス革命、ロマン主義、ヘーゲル、そしてマルクス
その後、ロべスピエールの失脚と処刑(1794年)、五人の総裁政府の設立(1795年)、そしてブリュメール18日のクーデターによるナポレオン政権の樹立(1799年)を経て、ようやくフランス革命は終結することになります。が、皮肉なことに、今度は、ナポレオンの対外戦争の勝利とその大陸支配によって、フランス革命の理念――近代社会を構成する市民的自由と国民国家の理念――は、他のヨーロッパ諸国に輸出されていきました。
とりわけ、ナポレオンによって、神聖ローマ帝国を解体されてしまったドイツ諸邦においては、近代的な統一国家を求めるナショナリズム運動が盛り上がりを見せると共に、〝まだ見ぬ国家〟への夢を描くロマン主義運動が勃興することになります。
初期ドイツ・ロマン派(イエナ・ロマン派)の批評家フリードリヒ・シュレーゲルは、1798年に発表した「断片」のなかで、すでに次のような言葉を記していました。
「フランス革命、フィヒテの知識学、それにゲーテの『マイスター』、これが時代の最大の傾向である。この組合せに賛成できない者、はっきりと物質的にあらわれた革命しか重要なものに思えない者、彼らは人類の歴史のはるかな高みにまでまだ自己を高めることのできていない者である〔中略〕、その時代の騒々しい大衆がほとんど注意を払わなかった幾冊かの取るに足りぬ書物が、彼ら大衆がなしとげたことを全部寄せ集めたよりももっと大きい役割を果しているのである。」『ロマン派文学論』山本定祐編訳、冨山房百科文庫
神(宗教)に直結した王政(王権神授説)が倒されたことが、そのまま〈時代最大の傾向=市民的自由と国民国家の理念〉を用意したというのは分かりやすいと思いますが、その他、フィヒテの知識学と、ゲーテの『マイスター』(小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』)とは、フランス革命後の時代思潮のなかでどんな意味を持っていたのでしょうか?
それは言ってみれば、伝統の拘束をうしなってバラバラになりかかった社会を、まとめ上げていくための中心点と、その活用を示すマニュアル本のような役割を持っていました。
カントの「理性」についての議論(連載第3回を参照)を引き継ぎながら、それを改めて世界の中心として措定し直したフィヒテの自我哲学(『全知識学の基礎』1794~95年)、そして、その自我の成長と、その現実変革(世界の制作)のあり方を具体的な物語として描いたゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1795~1996年)、この二冊の本は、まさに、近代個人の生成(ビルドゥングスロマン=自己形成)が、そのまま、近代社会の建設を可能にするはずだというロマン主義の「夢」を支えていくことになるのです。――実際、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の後半は、自由の国=アメリカから帰国した青年貴族のロターリオに感化された主人公のヴィルヘルムが、放浪と演劇の生活に終止符を打ち、「塔の結社」(フリーメーソン)を主宰しているロターリオと共に、理想社会建設の実践活動に入っていくというところで終わっていくのです――。
そして、このフィヒテの自我哲学とゲーテの自己形成小説の交点に現れてくるもの、それこそが、ドイツ・ロマン派の正嫡(せいちゃく)であると同時に、その超克をも説くヘーゲル哲学だったのです。
個人における自由と、社会における秩序とが矛盾なく一致する点(一般意志=絶対知)へと向かう精神の自己形成を、そのまま「歴史」の進歩と重ね合わせて描くヘーゲル弁証法は、そのままビルドゥングスロマン(自己形成)の哲学版とも、最後の審判を語るキリスト教神学の世俗化版とも言えますが、見落とすべきでないのは、そのヘーゲルもまた、「フランス革命」を、近代社会の「起点」の一つと考えていたという事実です。