領主の裁判権や教会の「十分の一税」の廃止、全市民に対する公職の開放と、地域特権の廃止などを宣言した前者によって、それまでフランス社会を支えていた身分制社会を解体した国民議会は、続けて「人権宣言」によって、自由で平等になった市民のなかに国家の「一般意志」を認める宣言を出すことになるのです。つまり、それまであった伝統的社団体制(中間団体)を否定し、それに代わって、一人一人の「理性」のなかに国家をまとめ上げるための〈権力=一般意志〉を見出すこと、それがフランス人権宣言の意味だったのです。
そして、その方向性をさらに加速したのが、フランス国王ルイ十六世のヴァレンヌ逃亡事件であり、その延長線上で起こった国王処刑でした。
「封建的特権の廃止」で、その身分制と社団(様々な中間団体の特権)が否定されてしまったからと言って、まだ、その存在(権威)までは否定されていなかった国王は、しかし、1791年6月に起こったヴァレンヌ逃亡事件(革命の激化を恐れた国王が国外逃亡を試みた事件)によって、国民からの信用を完全に失ってしまうことになるのです。人権宣言が出された後も、まだ立憲君主制の可能性を残していたフランス王室は、しかし、この国外逃亡事件によって、「外国勢力と結託した裏切り者」、「国民をないがしろにする暴君」というイメージを自ら呼び寄せてしまい、その権威と信用を地に落としてしまうのでした。
その後、国民議会でも立憲君主派であるフイヤン派に対して、共和派のジロンド派が台頭してくることになりますが、王権の息の根を完全に止めたのは、皮肉なことに、フランス国王の地位保全を求めるオーストリア=プロイセン連合軍による対仏戦争でした。
戦争の最中、フランス軍の敗北と退却が伝えられると、その報せに危機感を募らせたパリの民衆は、武装蜂起をしてテュイルリー宮殿を襲撃、「外国勢力との結託」が疑われた王権を停止し、その半年後の1793年1月、ついにルイ十六世を処刑してしまうのです。
そして、ここで見落とすべきでないのは、フランス革命がその歯止めを失ってしまったのは、この国王処刑を契機としていたという事実です。国王の存在が、社会に多様に根を張る社団=様々な中間団体を統合する要をなしていただけに、その処刑はフランス社会の正統性に動揺をもたらし、それを収めるために、あの「一般意志」の理念がより強調されていく……、そのような経緯を辿りながら、次第に「革命」は過激化していくのです。
国王処刑を契機として、イギリスを中心とした第一回対仏同盟(英国首相ピットの提唱で成った、フランス革命拡大阻止のための軍事同盟)が結ばれますが、そんな内外の非常事態に際して台頭してきたのが、共和派=ジロンド派を追放して、よりラディカルな中央集権化と経済統制を追求するジャコバン派でした。そして、その中心にいた人物こそが、何よりもルソーを崇拝する若き革命家=ロべスピエールその人だったのです。
かくして、ロベスピエール率いる革命政府は、伝統的社団から解き放たれた「自由で平等な個人」をまとめ上げるべく、要するに、バラバラになった国民を一つの「全体」へと統合するべく、様々な「革命」へと乗り出していくことになります。
革命に相応しい愛国者を養成するための教育改革(ブエキ法案)、革命暦の導入(グレゴリウス暦の廃止と、暦における十進法の採用)、キリスト教や王政を連想させる地名や街路名や市町村名の変更、アンシャン・レジーム下での身分関係を連想させる言葉の撲滅(言葉狩り)、第一身分を形成していたカトリック教会への攻撃と非キリスト教化運動の推進、そして、過去の宗教シンボルに代わる「自由と理性の女神」の創設(ジャコバン派のエベールによる)、また、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」という考えの下に執り行われた「最高存在の祭典」(ジャコバン派のロベスピエールによる)など……、それらの政策は、単なる外形的な統治を超えて、人々の「心の習慣」にまで手を入れ、古い人間を「新しい合理的人間」に作り変えるための文化革命の様相を呈していました。
そして、ここでも、革命の中心にあって、その運動を導いた理念は、第3回の連載でも記しておいた「理性」と「自由」の理念だったのです。たとえば、ロベスピエールの言葉を、国王処刑直前の演説と、革命政府樹立後の演説から二つ引いておきましょう。
「〔私は、ジャコバン・クラブを専制支配していると批判されるが〕だがそもそも、世論による専制支配、とりわけ、諸君自身がいっているように、最も熱烈な愛国者とみなされている一五〇〇人の市民から構成され、自由な人間からなる協会(ジャコバン・クラブ)における世論による専制支配とはいったい何を意味するのかが、私にはわからない。もしそれが諸原理の当然の支配を意味するのであれば、話は別であるが。ところで、この支配は、それらの原理を述べる特定の人間に属するものではなく、普遍的な理性の支配、そしてこの理性の声を聞こうとするあらゆる人びとの支配なのである。それは、憲法制定議会の私の同僚の、立法議会の愛国者の、そして自由の大義をつねに擁護したあらゆる市民の支配なのだ。」(1792年11月5日、国民公会でのロべス・ピエールの発言、松浦義弘『ロベスピエール 世論を支配した革命家』山川出版社)
「このような情況においては、諸君の政策の第一の準則は、人民を理性によってみちびき、人民の敵を恐怖によって圧することでなければならない。……恐怖は、迅速、厳格、かつ毅然たる正義以外の何物でもない。それゆえ、それは徳の発露なのだ。……自由の敵を恐怖によって屈服させよ。諸君の行為は、共和国の創設者として正当化されよう。革命政府は、圧政にたいする自由の専制なのだ」(1794年2月5日、国民公会に対する、公安委員会代表=ロベスピエールの報告、リン・ハント『フランス革命の政治文化』松浦義弘訳、ちくま学芸文庫)