Ⅰ社会契約論とルソー――「一般意志」という名の強弁
前回の連載の終わりで、私たちは、過去の軛(くびき)から自由になった個人が、しかし、その孤独と不安から、〝ここではないどこか〟(理想のユートピア)を思い描き、ついには、己の「理性」によって現実の変革を夢見はじめるまでの流れを確認しておきました。また、その上で、カントとロベスピエール、さらには、二人の思想を通じて、次第にルソーの社会契約論がクローズアップされてくるまでの経緯を見ておきました。
ただ、社会契約論それ自体は、宗教を支えにした共同体(封建国家)が崩れ去っていった時代に、社会秩序を新たに立て直さなければならないと考えた政治思想家たちの一般的な危機意識の表れだったと考えることもできます。第2回の連載に、「〔合理主義の流行に〕関連あることの一つとして、それが摂理への信仰の凋落と密接に結び付いているのは確かである。有益で誤りなき技術が、有益で誤りなき神に取って代わったのである」(「政治における合理主義」嶋津格訳、〔 〕内引用者、以下同じ)というマイケル・オークショットの言葉を引いておきましたが、まさに、この「摂理への信仰の凋落」において登場してきたもの、それこそが、〈君主=権力stato〉による秩序形成を待望するマキャベリの『君主論』(1532年)であり、そんな国王の〈主権souveraiinetê〉を至高のものとして概念化したジャン・ボダンの『国家論』(1576年)であり、さらには、「理性」による社会契約を媒介にして政治秩序を立て直そうとした、ホッブス(1588~1679年)や、ロック(1632~1704年)や、ルソー(1712~1778年)の社会契約論だったのです。
ところで、ここで見落とすべきでないのは、ルソーを例外として、それらの社会契約論の背景には、それぞれ具体的な「革命」(社会的動乱)が伴っていたという事実です。
たとえば、「万人の万人に対する闘争」(自然状態)を治めるためには、各人は各人の「理性」に従って、己の自然権を一人の主権者(国家)に委ねることを契約しなければならないとしたトマス・ホッブスの『リヴァイアサン』(1651年)です。その背景には、宗教戦争の混乱と、それを終わらせたピューリタン革命(1649年のチャールズ一世の処刑と、クロムウェルの独裁)の影響が見て取れます。
あるいは、外敵から個人の身体とその労働による所産(所有物)を守るためには、個々人の契約によって政治社会を作り上げなければならないとしたジョン・ロックの『統治二論』(1689年)。その背景には、ジェームズ二世を追放し、「権利の章典」(イギリス議会政治の基礎)を可能としたイギリスの名誉革命(1688年)の影響が透けて見えるでしょう。
つまり、彼らが直面した政治社会の混乱を、彼らなりの視点(機械論的世界観や、ピューリタニズム)から改めて解釈し直し、それを合理的な統治に生かそうとする現実改良への意志、それがホッブスとロックの社会契約論の動機だったということです。
しかし、ルソーの『社会契約論』の背景には、そういった解釈すべき社会的動乱は存在していませんでした。ルソーは、自らの故郷であると同時に、カルヴァンが立法者として振る舞ったジュネーヴ(共和国)を理想国家と見做していたようですが、しかし、皮肉なことに、ルソー自身は、ジュネーヴ政府から嫌われ(ルソーの『社会契約論』と『エミール』は、ジュネーヴ政府によって発禁・焚書処分とされ、ルソーには逮捕状も出されます)、むしろ、その社会理論を受け入れ、それを聖典のように崇め奉ったのは、ルソーの死後、フランス革命を過激化していったロべスピエール等のジャコバン派だったのです。
では、ルソーの社会理論のどんなところが、ジャコバン派の心に訴えかけたのでしょうか? まず、ルソーの社会理論の〝性格〟がよく分かる言葉から見ておきましょう。
「人間社会を平静で公平な眼をもって眺めてみると、まずそれはただ強い者の暴力と弱い者への圧迫だけを示しているようにみえる。〔中略〕そして、人間のあいだでは、知恵よりもしばしば偶然によって生み出され、弱さあるいは強さ、富裕あるいは貧困と呼ばれる、あの外面的な関係ほど安定性のないものはないのだから、人間の建設物(制度)は、一見したところ、くずれやすい砂山の上に築かれているかのように思われる。」
「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった」『人間不平等起源論』(本田喜代治・平岡昇訳)岩波文庫
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。」『社会契約論』(桑原武夫・前川貞次郎訳)岩波文庫