Ⅳ 私たち自身の「保存と修正」——来るべき「保守思想」に向けて
このように日本人は、その時々で、他では見られないほどの美しい調和(義理と人情と、それによる助け合い)を見せることがあるかと思えば、一転して、不条理な思考停止(空気の支配)の様相を示すこともあります。が、注意したいのは、この日本人の美点と弱点は、どちらも同じ日本人の性格、同じ感性から発しているものだということです。
ただ、このことは、これまでの議論を確認すれば何ら不思議ではないでしょう。
「第1地域」特有の流動性の低さと、それによる同質性を与えられた日本人は、また、西ヨーロッパにおける超越神の契機(ニーチェ的に言えば、目の前の是認し難い現実世界を否定するルサンチマン=超越性)を必要としないまでに豊かな「自然」と「共同体」に恵まれてきました(この辺りの「豊かさ」の描写は、幕末に来日した西欧人による日本紀行記を読んでもらうのがいいかと思いますが、何と言っても一番纏まっているのは、渡辺京二の『逝きし世の面影』です)。そのなかで、「つぎつぎとなりゆくいきほい」に育まれた「義理と人情」をカミとしてきた日本人は、それゆえにギブ&テイクの均衡感=調和感のある小さな共同体を上手に作ってきたのでした。が、だからこそ、その調和が少しでも崩れてしまったときに日本人は、自分でもコントロールのつかないヒステリックな「空気」を醸成しながら、「バカの壁」(養老孟司)で自分を守ろうとしてしまうのでした。

幕末の日本の暮らしを描いたもの
では、この生態的かつ歴史的に作られた日本人の性格——その弱点も含めた日本人性——に対しては、「そういうもの」として諦めるしかないのでしょうか? 言い換えれば、日本人の「美点」を保存しつつ、その「弱点」を修正することは不可能なのでしょうか?
そのことについて考えようとしたとき、私が必ず思い出す言葉があります。これもやはり山本七平の言葉なのですが、印象的な箇所なので、少し長く引いておきましょう。
「一方明治的啓蒙主義は、『霊の支配』があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとして、それを『ないこと』にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、『ないこと』にしても、『ある』ものは『ある』のだから、『ないこと』にすれば逆にあらゆる歯止めがなくなり、そのために傍若無人に猛威を振い出し、『空気の支配』を決定的にして、ついに、一民族を破滅の淵まで追いこんでしまった。」
「福沢諭吉——どうも彼を目の敵にするような結果になるが、彼だけでなく、あらゆる意味の明治的啓蒙家——が行ったことは、下手なガンの手術と同じで、『切除的否定』で『ないこと』にしたものが、逆に、あらゆる面に転移する結果になってしまった。さらに悪いことに、戦後もう一度、同じような啓蒙的再手術をやっている。」
「〔空気の支配が〕猛威を振い出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には『空気』に支配されることを『恥』とする一面があった。〔中略〕ところが昭和期に入るとともに『空気』の拘束力はしだいに強くなり、いつしか『その場の空気』『あの時代の空気』を、一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、同時にそれに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。」『「空気」の研究』文春文庫
ここでは、重要なことが二つ指摘されています。一つは、近代主義、啓蒙主義、進歩主義によっては、日本人の「空気」に弱い性格は克服できないどころか、むしろ、それを助長してしまうだろうということ。そして、もう一つは、近代化されていない時代(徳川時代と明治初期)の方が、日本人は、その場の「空気」に強かったのだという指摘です。
実際、これは、「文明開化」や「戦後民主主義」をウチに囲い、遅れた「前近代」や「戦前」をソトに排除するという、それ自体「空気の支配」による近代日本史の現実を見れば誰でも容易に納得できる話でしょう。近代日本人の——特に戦後日本人の——同調圧力に対する「弱さ」に比べて、武士道によって育てられた維新の志士たちの「強さ」(脱藩などを含めた自立自尊の姿)を見れば、「これが同じ日本人か……」といった感慨を禁じ得ません。
しかし、だとすれば、ここには日本人が「伝統」を適切に引き受けていくために必要な姿勢、あるいは、日本人の美点を保存し、弱点を修正していくことの手掛かりが示されているのではないでしょうか。「ここではないどこか」(西欧)から、目の前にある日本を批判するのではなく、むしろ、「いま、ここ」を自覚的に引き受けながら、その言語化と意識化を深め、さらには過去の日本人の「生き方」に照らして、私たち自身の「生き方」に一つ一つ手入れをしていくこと、そのヒントが示されているのではないかということです。その試行錯誤の営みのなかで、少しずつ、私たちの「弱点」を矯(た)め、「美点」を伸ばしていくこと、その可能性を山本七平は示しているのだと言ってもいいでしょう。
そして最後に付言しておけば、近代日本のなかで、この困難な姿勢を貫いてきた人々のことをこそ、私たちは「保守思想家」と呼んできたのではなかったでしょうか。本稿で扱うのは西田幾多郎、九鬼周造、小林秀雄、福田恆存などですが、もちろん彼らは例外なく、西洋近代に多くを学んだ人たちでした。が、西欧に学んだがゆえに、それ以上に、自分たちの足元にある〈生き方=伝統〉が気になって仕方がなかった人たちでもあります。
次回以降、近代日本における「伝統」の引き受け方を見届けながら、私たち自身の「保存と修正」(エドマンド・バーク)のやり方を、その「弱点」を矯め、「美点」を伸ばしていくための思考法——私たち自身の「保守思想」——を見ていきたいと思っています。
【註1】
実はこのあたりのことは、むしろ中国文学者・小説家の武田泰淳のエッセイ「滅亡について」などを読んでもらった方が、リアリティがあるのかもしれません。
武田泰淳は「鴎外の理知や、〔谷崎〕潤一郎の構想力や、古くは『平家物語』の琵琶法師の詠嘆」などを取り上げながら、彼らは総じて「亡国の哀歌をきく側にあったようである」、「彼らは滅亡に対してはいまだ処女であった。処女でないにしても、家庭内においての性交だけの経験に守られていたのである」と言う一方で、「中国は、滅亡に対して、はるかに全的経験が深かったようである。中国は数回の離縁、数回の奸淫によって、複雑な成熟した情欲を育くまれた女体のように見える」と言っていました。その点、日本など「第一地域」の人間は、「第二地域」における「世界の持つ数かぎりない滅亡、見わたすかぎりの滅亡、その巨大な時間と空間を忘れている」と言えるのかもしれません。