服から始まるアイデンティティーとは
東京都の中央区立泰明小学校がアルマーニの標準服を採用した件が話題になっている。公立校でありながら、最高で約9万円もの高価な服を一律子どもたちに着せる意味はどこにあるのか。反発する保護者に対して和田利次校長が説明した文書やコメントには、「街との絆」「(泰明のよさを失わないための)スイッチ」「ビジュアルアイデンティティー」「スクールアイデンティティー」「銀座ブランド」といったワードが並んでいる。いわば、銀座にある学校として、全校生徒に世界的なメゾンの服を着せてブランディングすることで、母校愛とアイデンティティーを確立させたいということなのであろう。泰明小学校が、中央区在住であれば通学区域に関係なく、希望者を抽選で受け入れる特認校であるという事情を考え合わせ、保護者の立場から理解を示す意見もインターネット上では散見された。
私はこの情報に触れてひとりの男を思い出した。青木繁治という名古屋の中京テレビ放送のプロデューサーである。少し長くなるが、その半生を紹介したい。
赤いランドセルの少年
大阪は西成(にしなり)生まれの青木には小学校に通った記憶がほとんど無い。実際には6年間で100日くらいは登校したようだが、とにかく何を学んだのか、一切覚えていない。その理由は病気でもケガでもない。ましてや暴力的だったために隔離されていたわけでもない。理由は子どもの頃から好きだった赤色のせいである。
青木は小学校に入学する際、親から買ってもらうランドセルの色を赤にしたのだ。現在でこそ、グリーン、ブラウン、サックスブルー、パープルとカラフルであるが、当時ランドセルには赤と黒しかなかった。「いやいやえん」(『いやいやえん』[1962年、福音館]所収)という中川李枝子の童話の中で、主人公のしげるが赤いおもちゃの自動車を徹底して嫌って、「黒がいい」とダダをこねる場面がある。男の子は黒色だというのが、しげるの考えだが、青木はその正反対の嗜好(しこう)であった。思えば青木は色の性差を6歳にして乗り越えていた、自由な精神の持ち主とも言えた。
ところが、これが理由で、小学校で集団のすさまじいイジメに遭った。クラス内のみならず集団登校のときなどは全校生徒の注目を浴びて標的にされた。「赤色が好きで何が悪いんや」と断固として背負ったランドセルは、同時に重い十字架となっていた。「男は黒」という圧倒的なマジョリティーを前に青木は奮闘した。一発殴られれば二発殴り返して闘っていたが、多勢に無勢である。最後は必ず負ける。先生も何もしてくれない。転校もしてみたが、どこも一緒でそのうちに学校というところがすっかり嫌になってしまった。高学年になるともうほとんど行かなくなった。
この時期の青木の支えになったのが、釣り人だった。朝、家を出ると、そのまま淀川に向かうのだ。川のほとりで釣りをしているおっちゃんの横で体育座りをして一緒になってウキを見ていた。「お前、学校はどうしたんや?」と言いながらも釣り人は優しかった。深くは訊いて来ない。そして世間話に興ずるとおにぎりをくれた。
こうして日々をやり過ごしながら、青木はどんなイジメに遭っても6年間、節を曲げずに、まれに学校に行くときは、ガンとして赤いランドセルで通した。そして今も青木は赤い服しか着ない。
「暗記」で化けた中学時代
中学へは進めないと思っていた。何しろ、ほとんどの授業を受けていないのである。学力的にはようやく漢字の読み書きができる程度でローマ字も分からず、AOKIという自分の名前も書けなかった(この影響で現在でも青木のパソコンのタイピングはかな打ちである)。それでも義務教育である。進学はできた。ヤンチャもやめた。梅田でイキがっていたら、ヤクザにゲタで頭を殴られて、アウトローで生きることを諦めたのだ。
小学生のときの通知表の評価はすべてが△であったが、初めて勉強というものをしてみようと考えた。とは言え、塾にも行ったことがなく、勉強の仕方というものを知らない。マイナスからのスタートである。やり方が分からないので、仕方なく自己流で教科書を丸暗記することにした。意味の理解は脇に置いてただひたすらに覚え続けた。すると思いがけないことが起こった。日本の学校の試験は突き詰めれば暗記力のチェックテストである。成績が一気に上昇していった。「ビリギャル」の比ではない。小学生時代の学力が皆無に等しかった少年が、マイナスから一気にトップとなった。
高校は関西有数の進学校に進んだ。嬉しかったが、逆に醒めてしまう気持ちもあった。「学校で勉強ができるって結局、暗記なんやな」。かつて畏怖した学力は蓄積が無くてもツボさえ押さえれば簡単に上がる。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」であった。
「おっちゃん」の影響で水産学部へ
大学については本が好きになっていたので、文学部に行こうかと考えていたが、どうも周囲で文学部に行こうと言っている連中とは話が合わない気がしてきた。ならば理系である。この頃になると、暗記力のみならず、物事を論理的に解析する思考が身についていた。特に数学の美しさに魅かれていて公理にはロマンさえ感じていた。試験はいつも満点で、教師からは「お前はひとりでもええから数学研究会を作ったら、どうや? 大会に出たら優勝できるぞ」と勧められた。どんな問題も時間さえかければ解けないものは無くなっていた。
偏差値の上ではほとんどの大学に受かると言われたが、どこに行きたいのか自問してみると淀川の光景が浮かんできた。小学校に行かずに日がな一日、おっちゃんの魚釣りを見ていた。「何や、ギンブナいうフナは雌しかおらんそうやん」。サカナをもっと知りたい。青木は国立三重大学の水産学部に進路を定めて、合格を決めた。
学生時代はひたすら遠洋漁船に乗って魚と戯れ、無人島での研究に没頭していた。漁師とのコミュニケーションは不可欠であったが、それは小学生の頃から培ったスキルが役に立った。宮本常一(民俗学者。1907~81年)よろしく、現場に入っては一緒に酒を飲むことから始めて信頼関係を築いていった。
就職に際しては中京テレビの募集要項が水産学部の掲示板に貼られてあるのを見て、「これもおもろいかな」という軽い気持ちで受験を決めた。テレビを熱心に観たこともなく、ましてやコネも無く、無人島暮らしが長かった故に面接の際にリクルートスーツを着るという社会常識も無かった。そもそも赤い服しか着ないのである。それでも1989(平成元)年度の入社試験に通ってしまった。
おもしろさには「公式」がある
2年目からADに就くとテレビマンに必要な対人関係の強さを発揮しはじめた。