いったい何が歴史ある釜山国際映画祭に腐敗をもたらしたのか。また同じ韓国映画人として、一度地に落ちた信頼からの再生を目指し、自浄を怠らない姿勢について、ドキュフォーラムのメンバーとして『本名宣言』剽窃問題を糾弾しているキム・ドンリョン監督に聞いた。
キム・ドンリョンは1977年生まれの女性監督。米軍基地のあるトンドゥチョン市の風俗街で暮らすセックスワーカーたちの生に焦点を当てた作品『アメリカ通り』(2008年)で山形国際ドキュメンタリー映画祭のアジア部門最高賞である小川紳介賞を受賞し、テーマ的続編とも言える『蜘蛛の地』(2013年)でも高い評価を得た。最新作の『妊娠した木とトッケビ』(パク・ギョンテとの共作、2019年)はイメージフォーラム・フェスティバル2020で寺山修司賞を受賞した。
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韓国映画界と民主化闘争の歴史
――98年に起きたこの事件では、釜山映画祭の審査員、韓国独立映画協会の関係者などが、誰が見ても露骨な剽窃を、問題なしとしてしまった。私も今回直接、ホン監督をはじめ当事者本人たちに質したのですが回答が全くなく、過ちに誠実に向き合う姿勢がありませんでした。その背景について、この問題にずっと着目されてきたキム監督からご説明ください。
キム それには、商業映画と異なる韓国独立映画の歴史をまずお伝えする必要があります。ご存知のように我が国の80年代は全斗煥(チョン・ドファン)大統領による独裁政権です。その中で、志のあるクリエイター、すなわち「独立映画人」と呼ばれる人たちは、小規模に映画活動をしていました。彼らは主に大学街で活動する学生で、志向やスタンスはそれぞれ違いました。一部の集団は忠武路(チュンムロ)を目指し商業映画に挑みつつも、魂を売らず資本に対抗しながら製作すると主張していましたし、他には民衆の側の映画をつくることで民主化闘争に参加しようとする集団がありました。彼らは、韓国政府の検閲を受け入れエロを中心とした作品を製作する商業映画を物凄く軽蔑し、「パンファ」と呼んでいました。これは韓国の国内映画を見下した言い方です。
――そうですね。80年代は、日本のレンタルビデオショップに行っても韓国映画のコーナーには今のような活況はなかったですね。
キム 実際、ほとんどの映画ファンは外国映画を観ていました。その間に大学街では、表現の自由についての欲求が大きく膨らみ、自分たちで海外の本を翻訳して学び、8ミリフィルムで映画を撮り始めたんです。ただ、当時は映画はまだ主流芸術ではありませんでした。真に民衆のための文化を作らなければならないという民衆文化運動が流行していて、マダン劇(仮面劇)やタルチュム(面踊り)といった伝統芸能復興のブームがまず先にありました。そこにあとから、映画が入ってきたわけです。
80年代後半には多様な映画運動があったのですが、91年頃に独立映画協議会が生まれました。そのなかで「青い映像」という団体を率いていたのが、キム・ドンウォン監督です。90年代に彼らは検閲を拒否して民主化に関する作品を自主上映する活動を展開しました。政府は官憲を導入してこれを中断させようと動きました。だから独立映画界と警察との間には常に攻防戦、乱闘があり、キム・ドンウォン監督も一度、拘束されたことがあります。私の見解では、キム・ドンウォン監督を中心とした独立映画人と自称する人たちは、このころの体験から、自分たちだけが表現の自由のために権力に抵抗し闘っていたという意識を重ねて行ったと思うのです。やがてキム・ドンウォン監督は98年に韓国独立映画協会を作りました。
――98年……。「『本名宣言』の剽窃問題」と同じ時期ですか。
キム はい。この事件は、ホン監督がヤン監督の著作権を侵害した剽窃事件であるにもかかわらず、韓国独立映画協会がわざわざ組織として「剽窃ではない!」という声明を出しました。その理由のひとつには、国家と闘ってきた中で培われた「我が陣営は正しい」という独善的な妄信があったと思います。
それからもうひとつ、韓国独立映画協会にとっては、剽窃問題をいち早く提起し報道したのが、「中央日報」だったという点も重要でした。韓国には、「チョジュンドン」(朝中東。「朝鮮日報」、「中央日報」、「東亜日報」を指す)という単語があります。言うなれば独裁政権を賞賛し、民主化運動世代を貶め、やつらは「アカ」だと揶揄してきた保守的な三つの新聞の頭文字です。その一つである「中央日報」がヤン監督を擁護したという事実自体が、韓国独立映画協会の人々を刺激しました。彼らは、ホン・ヒョンスクが苦楽を共にした独立映画陣営の仲間であったため、事実を直視しようとせず、無条件でホンを擁護し、ホンに対して問題提起をするヤンヨンヒ監督を“加害者”として非難し始めたのです。その結果、ヤン監督は「在日同胞でありながら、ホン監督の成功に嫉妬している人」だと曲解され、流布されました。
――しかし、それは真実を見ようとする姿勢ではなく、ただ保守派メディアとの対立構造から、剽窃問題をすり替え、レッテルを貼ったに過ぎません。
「朝鮮籍」
日本の外国人登録行政では、国籍欄に記載された「朝鮮」とは、朝鮮半島出身者という意味の出身地を表す記号とされ、朝鮮民主主義人民共和国の国籍を示すものではない。これは、在日朝鮮人が日本国籍を有するとされながら外国人登録令を適用され、その際国籍欄に、便宜的に出身地「朝鮮」が記されたことに拠る。1950年2月、GHQの指令で「韓国」に書換が可能となり、51年2月以降、出入国管理庁長官通達によって韓国のみが国籍表示となる。(和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』〈2002年、岩波書店〉より)
忠武路
ソウルの一角。1955年に大型映画館「大韓劇場」が建てられて以降、映画会社や映画館が集まり、商業映画を象徴する地名となった。